最後まで残った河上徹太郎
旧社員の藤田博泰によると、永井副社長は活字鋳造機の導入、出版への参入への準備を進めていた。「固苦しい人柄」だが「真面目な仕事ぶり」だった。そこを小林も見込んだのか。藤田は「〝自由トリデ〟の新夕刊」で書いている。
「後年、某先輩が新夕刊のつまずきを解説して「買うべき輪転機がアルコールに蒸発してしまった」と嘆いたが、永井副社長は十年後の回顧談に「自分は新夕刊経営に自信があった」と語っていた。私は「あるいは」と信じる一人である。しかし永井副社長は志半ばに、間もなく[昭和二十二年秋に]言論追放になり退社した」
藤田の回想には、小林のもう一人の盟友・河上徹太郎の姿も描かれている。
「戦後復興の兆しが見えると、大新聞、出版社に移籍する人が多かったが、最後まで残っていたのが、文化部長の河上徹太郎だった。終戦直後の東京新聞に発表した「配給された自由」の一文が災いし、ジャーナル界から村八分にされ四面楚歌の時だ。無言で独り机に向かう端正な河上の顔は「祈り」に似た透明な静けさがただよっていた。/新夕刊の資本系統が児玉機関であることは、世間の常識になっていたが、「ボクは右翼でもいいよ」と、某デスクに述懐したという」
河上は戦争中に「文學界」で行なわれた共同討議『近代の超克』の司会者であり、仕掛人であった。河上、林、小林、それにやはり「参与」の亀井勝一郎と、「近代の超克」の「文學界」側出席者のうち四人が揃っているのは、なにごとかを伝えていよう。林房雄は「私は私なりにこの新聞の中に抵抗の拠点をもとめていた」と回想している。