「のらくろ」と「サザエさん」を連載
小林の義弟である漫画家の田河水泡も「私の履歴書」(「日本経済新聞」昭和63・10・1~31)で、「新夕刊」を懐かしがっている。兵隊漫画「のらくろ」の田河水泡は、敗戦を機に注文がまったく来なくなった。「田河水泡なんて古いさ」という声が耳に入ってきた。
「そんな状態が続いていた昭和二十年暮れか二十一年初めごろのことだ。鎌倉に住んでいた小林秀雄から、新聞の仕事を一緒にやらないかと誘いがかかった。戦時中、上海の特務機関で児玉誉士夫の下で働いていた高源重吉という人が鎌倉に住んでいて小林と知り合いになり、戦後、「新夕刊」という新聞社の社長を引き受けた。輪転機などの設備はあるが、編集のスタッフがいないので小林に協力を求めてきたらしい。そこで小林は鎌倉文士や親しい漫画家たちに声をかけて、人を集めているところだった。(略)私はそれから一年あまり、その新聞社の社員として月給をもらい、荻窪から毎日ギューギュー詰めの満員電車で通勤したのである」
漫画を大きく扱うのは、小林が当初から掲げていた方針であった。田河以外では、鎌倉から横山隆一と清水崑が参加した。漫画原稿の投書や持ち込みから、横山泰三や加藤芳郎、小島功も出てくる。小林グループが退陣した後だが、田河の弟子の女性漫画家の連載も「新夕刊」に載る。「夕刊フクニチ」で人気となっていた「サザエさん」は、一家をあげて東京に引越す。その落ち着き先が「新夕刊」だった。昭和二十三年(一九四八)十一月から翌年四月まで、「サザエさん」は連載され、その後は朝日新聞へと移る。作者の長谷川町子は戦前からの田河水泡の弟子であったから、その縁は大きかった。
驚くことに「のらくろ」も「新夕刊」に一時期、連載された。ただし、これは戦前の「のらくろ」の続きの兵隊漫画ではなかった。いくら娯楽夕刊紙でも「軍人のらくろ」は無理だろう。田河は「のらくろ」以外にも、東京探訪記を連載し、漫画のカットをあしらった。田河は高源のことも書いている。「高源社長は町では手に入らない物資をどこからか集めてきて、よく社員に分けてくれた。エチル・アルコールをもらって、社内で水で薄め、みんなで飲んだこともある」。
藤田博泰によると、田河は「ボクも新米記者だよ」と称し、「ここにいる若い人は、みんな僕の愛読者になって育ったからナ」といって笑わせた。従業員組合をつくり、自らは副委員長におさまった。「水泡先生は戦前のアナーキストだった」。