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「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(上)

【連載第六回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「陰の持ち主」児玉誉士夫

 藤田たち新人の初任給は二百円、翌年三月の本採用時には倍増して月給四百円となる。インフレさえなければ、なかなかの好待遇だったようだ。副社長の橋本八男(ポット『上海史』の訳者)、編集局次長の後藤基春(『経済主義の克服』の著者。河合栄治郎門下)、杉原正巳(月刊誌「解剖時代」主宰。『東亜協同体の原理』の著者)、政治部長の江木武彦(同盟通信出身)といった初期メンバーの多くは「近衛新体制」の理論付けをやった仲間で、「昭和天皇退位せず」の情報をいち早くキャッチしたのも彼らだったという(当時の社員・武藤輝彦の証言。旧社員たちが出した「新夕刊同人」5号)。武藤が書いた東京裁判批判の寸評がキーナン検事を怒らせ、「新夕刊」は三日間の発行停止となる。その責任をとって、橋本、江木などの編集幹部は退陣となった。

 占領期の史料「プランゲ文庫」の整理にあたった奥泉栄三郎によれば、米軍当局は「新夕刊」の「陰の持ち主」が児玉誉士夫であることは調査済みだった(「GHQ検閲資料抄」「諸君!」昭和572)。児玉は当時スガモ・プリズンに収監されていた。奥泉は「新夕刊」の東京裁判批判の記事がゲラ刷りの段階で差し止められた例を原資料で見ている。差し止め理由は、「このような歴史的な出来事の審判は歴史の審判[判決]に待つの外はない」というものだった(奥泉「GHQ検閲資料 見たまま感じたまま」「新聞研究」399号)。

「編集総長」の小林は、こうした政治向きには関与せず、文化的な紙面づくりの知恵袋だったのだろう。小林がやったのは人集めだった。「新夕刊」がたちまちのうちに、焼け跡の梁山泊と化すのは、林房雄をはじめとする小林秀雄人脈の勢揃いがあったからだ。

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