「楽しい新聞、自由な新聞」
余りの巨額に林は仰天する。潤沢な資金も含め、この高源社長について、さらには小林との関係についは、後で詳述することにして、林と小林の会話を続けて見てみよう。
小林「おまえにはできる。おれもやることはやるが、新聞向きの文章など絶対に書けない。おまえは書ける。おれはときどきプランだけは出してやるよ」
林「しかし、やまと新聞は岩田富美夫、児玉誉士夫系だぞ。それをおまえがやるのか。おれには右翼の正札がついているから、かまわないが......」
小林「ふん、イデオロギーか。おまえはまだそんなものにこだわっている。児玉機関も高源もイデオロギーなどという屁みたいなもので動いているのではない。ただ日本人として働いていただけだ。高源は新聞の内容は一切おれたちにまかせると言った。とにかく高源に会え。社員はその上で集める。鎌倉だけでも失業中の仲間はまだたくさんいる」
二人は東京に出て、銀座の上海ビル内にある児玉事務所を訪れる。高源は二人に現金十万円を渡した。ただし、そこから一万円を抜き取る。「これだけ、わしにちょいと貸してつかさい。二、三日のうち必ず返します」。林は訝しく思ったが、お金は言葉通りすぐに戻って来た。林はこの初対面を昭和二十年(一九四五)十二月頃として描いているが、もう少し早い時期だったようだ。入社試験に合格し、十月末に入社した藤田博泰(後に整理部長)の回想によると、スタッフ十数人の初顔合わせに、二人ともいたからだ。
「橋本八男副社長兼編集局長が司会して編集総長・小林秀雄、同顧問・林房雄のお二人が紹介された。この肩書は当時の社風から、いわば敬称みたいなもので、古い新聞年鑑には「参与」と記されている。/三人が交々話した中で、今でも覚えているのは「既成ジャーナリズムに毒されていない新人諸君は、無味乾燥な全国紙の記事をマネするな。人間臭い記事を書く。焼け出された都民や復員者が渇えているのは、希望の持てる話題と、楽しい娯楽だ」という言葉。これが「楽しい新聞、自由な新聞」をモットーとした編集方針のすべり出しだが、今日でも通じる斬新なキャッチフレーズだと思う。小林秀雄の意見をいれマンガや碁を大きく扱ったのも特徴だった」(藤田「〝自由トリデ〟の新夕刊」「日本古書通信」平成4・10)