二人のその後
興味深いのは、富美子は手記で男装について触れ、自分は男装をしていない、ズボンも穿いたことがない、断髪だがスカートを穿いて口紅もつけていると主張していることだ。「夷希」という名は、姓名判断で母が決めたもので、男名前ではないとも語っている。「私のような服装をした方は、銀座などではざらに見受けますものを――何で私だけに『男装』の名を用いられるのでしょう」というが、それはそうなのだろう。しかし、「男装」と言われてしまったのにはそれなりの理由もある。
ひとつには、エリ子やその同僚たちに写真館で撮影したブロマイドにサインをして渡していたのだが(素人がスターにブロマイドを渡すのも思えば奇妙である)それらはほぼバストアップで、ワイシャツにネクタイ、ジャケットなど、ズボンのほうがしっくりくるようなファッションで写っているのだ。また、学校時代に同性愛の噂があったとも報じられた。ただ、それについては女学生間に流行した「エス」などの他愛のないものかもしれない。
ともあれ、一連の騒動は、ヤングケアラーであり、アダルトチルドレンだった富美子が、失われた思春期を取り戻そうとアイデンティティの模索をしている間にこじれてしまったのが真相ではないだろうか。別居して妾と暮らした父親や、男装、同性愛、心中とセンセーショナルなキーワードに色めきたった大人こそ反省すべき騒動だったように思う。
事件の後の富美子は、親戚に引き取られる、職探しをしているなどの噂はあったが、その後は実家住まいで株の売買に天才的な手腕を見せていると報じられ、無事に日常生活に戻れたようだ。
またエリ子は、2年後にSSK宣伝部の兼松廉吉と結婚。先に兼松の子どもを得ていたため、一児の母の花嫁となった。その数年後に、水の江瀧子のマネージャーとなった廉吉が瀧子と恋愛関係に陥るのはまた別の話となる。それでも瀧子とエリ子は仲が良かったといわれている。
参考文献
「10代LGBTQの48%が「自殺考えた」 学校生活、就職でも困難多く―NPO調査」https://www.jiji.com/jc/v8?id=202303kouseilgbtq
西條エリ子「男装の麗人 増田富美子の死を選ぶまで」『婦人公論』20(3)中央公論社、1935年3月
西條エリ子「夷希よ、もう一度起き上つて 増田富美子への公開状」『婦女界』51(3)婦女界出版社、1935年3月
増田夷希「死に追ひつめられた私」『婦女界』51(4)婦女界出版社、1935年4月
増田富美子「死から甦りて女にかへる日の告白」『婦人公論』20(4)中央公論社、1935年4月
「女にかへる日の告白・批判〔入選三篇〕=〔選外〕強く生きて」『婦人公論』20(5)中央公論社、1935年5月
「又も一万円持って男装の麗人家出」1月28日付東京朝日新聞
呉漫叟「異性假裝症」『臨床月報』(321)臨床月報社、1938年3月
志野敏男「現代の娘は何故死ぬか」『話』3(9)文藝春秋社、1935年9月
1970年、兵庫県芦屋市生まれ。エディトリアルデザイナーを経て、明治大正昭和期のカルチャーや教科書に載らない女性を研究、執筆。著書に『20世紀 破天荒セレブ:ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝:莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)がある。最新刊は『あの人の調べ方ときどき書棚探訪: クリエイター20人に聞く情報収集・活用術』(笠間書院)。なお、2011年に『純粋個人雑誌 趣味と実益』を創刊、第七號まで既刊。また、唄のユニット「2525稼業」のメンバーとしてオリジナル曲のほか、明治大正昭和の俗謡や国内外の民謡などを演奏している。