敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
書き写された原稿が「新夕刊」に持ち込まれる
吉田の書いた原稿は吉川英治以外にも読まれる。吉田の友人の間を転々として、時に書き写されて増殖する。その原稿の一つを小林秀雄が目にした。江藤淳との対談「「大和」以後三十年」(「季刊藝術」昭和50冬)で、吉田は回想している。
「もちろん、そのころ、原稿用紙なんていうものは[物資不足で]ありませんから、大学ノートの切れはしに書きまして、それを友だちに見せたところが、友人のあいだを転々と回覧されまして、......当時、たしか「新夕刊」という新聞があって、林房雄さんとか河上徹太郎さんなんかがそれに関係しておられたと思うんですが、そこの編集部の手に入ったらしいんです......」
ここで「新夕刊」が出てくる。浜松町にあった焼け残りのビルは、当時、酒飲みたちが集まる梁山泊となっていた。そこに誰かから持ち込まれたのだった。林房雄はくだんの「サロン」誌に口語体の「軍艦大和」が載った時に、小林、吉川と並んで推薦文を寄せている。河上徹太郎は「軍艦大和」を「時事新報」の文芸時評(昭和24・5・22)で取り上げ、その文章は創元社版『戦艦大和の最期』では、吉川、小林、林、三島由紀夫と並んで「跋文」として収録された。東大生の三島が林房雄を訪ねて「新夕刊」に出入りしていたことも考え合わせると、吉田満を強力にプッシュしたのは「新夕刊」グループだったといえよう。
ここで今度は、「占領下の「大和」」の昭和二十一年四月一日の日銀に戻ろう。
「おそろしく慇懃に、氏は今編集責任者として準備中の季刊誌「創元」第一輯に、これをぜひいただきたいと、手擦れた草稿を撫しながらいわれた。見ればその草稿は、例の手稿ではなく、友人のО君が、便箋にギッシリと、ひどい細字で筆写したものであった。字が小さすぎるのと、描写があまり簡単なのとで、繰り返し繰り返し読んで、やっと戦闘の経過を了解したと氏は苦笑された。/私は、発表の意志なく書いたが、もしその価値のあるものなら、お任せしますと答えた」