GHQの説得を、白洲次郎に頼みこむ小林
この決定を覆すのは至難の業である。しかし、おめおめと屈伏するだけでいいのか。何かやれることはないか。小林たちはここから動き出す。
吉田満は「めぐりあい」では、白洲正子のエッセイ『鶴川日記』から小林の迅速な動きを紹介している。ここでは、より詳しい『白洲正子自伝』から、行動を起こす小林を紹介しよう。
「小林秀雄さんに私がはじめて会ったのは、終戦後(一九四六年)のことである。その頃白洲[次郎]は吉田茂氏のもとで働いていたが、重大な話があるというので河上[徹太郎]さんの紹介で鶴川村へ訪ねて来られた。/重大な用件とは、吉田満の『戦艦大和ノ最期』の出版の許可が降りないので、GHQに頼んでくれ、というのだった。(略)それは秋の夕暮のことだった。家のまわりは田圃で、小田急の鶴川駅との間に家は殆んどなかったが、その田圃の中の一本道をせかせかと歩いて来る男がいた。すぐ小林さんと解った。玄関(土間)へ入って外套をぬぐ間もなく、暖炉の前に座っていた白洲と、ろくに挨拶もせず早口に喋べりはじめた。まわりにいる河上さんも私も子供たちも完全に無視され、進駐軍から貰ったとっときのウィスキィにも手をふれなかった」
小林の姿が見えるようである。小林の「単刀直入」は殺気を帯びて光っている。昭和二十一年の「秋の夕暮」であるから、まさにその時である。
「これこれしかじかで......、今、どうしても出版しなければならない本なのだ。よろしく頼む。――会談はそれだけで終った。/小林さんの単刀直入の話しぶりは気持よく、初対面の人間を全面的に信用している風に見えた。白洲もそういう人間が好きだったから、話は一発できまり、必ず通してみせると胸を叩いた。あとは酒宴となり、世間話に打ち興じたが、著者の吉田満のことを小林さんが、「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と、ひと言で評したのを覚えている」
※次回は2月10日に配信予定です。
1952年東京都生まれ。慶應義塾大学国文科卒業。出版社で雑誌、書籍の編集に長年携わる。著書に『江藤淳は甦える』(小林秀雄賞)、『満洲国グランドホテル』(司馬遼太郎賞)、『小津安二郎』(大佛次郎賞)、『昭和天皇「よもの海」の謎』、『戦争画リターンズ――藤田嗣治とアッツ島の花々』、『昭和史百冊』がある。