サラリーマン定年後の悲劇は「男」という性の宿命である

渡辺淳一 インタビュー
渡辺淳一

行くべきところがないからトラブルが起きる

─渡辺先生がこの問題に注目し始めたのは、いつ頃からですか。

渡辺 最近のことですよ。僕がなぜこの小説を書けたかというと、それは歳を取ったからです。若い頃にはこうした問題があるとは気が付きもしなかったし、たとえ気が付いていたとしても、リアリティをもって小説として描くことはできなかったでしょう。
 七十代半ばになってふと気が付くと、僕の周囲には、定年退職をしてすることがなくなり、むなしい思いをしている人々があふれていました。そのなかでかつて編集者をしていた人はこう言います。「先生、月に一〇万円の給料でいいから働く場所がほしいんです。朝になって目が覚めたら、出かけることのできる勤め先がほしい」と。もちろんこれは編集者に限った話ではありません。あらゆる企業のサラリーマンが定年後には同じような境遇に置かれているのです。
 定年退職した直後は、「さあこれからは自分の好きなことでもして毎日をゆっくり過ごそう」と考えます。でもいざ、そうした生活を始めてみると、何もやることがない。忙しいなかであれほどやりたかったゴルフも碁もまったくやる気になれない。心のなかには、限りないむなしさが広がるばかり。
 これは若い人にとっては切実な問題ではないかもしれません。しかし六十代にとっては致命的な問題です。「俺はまだまだいろいろなことができる」という湧き立つような思いはあるのに、やるべきことが何一つないというつらさ。
 この作品の主人公である威一郎もそうですが、行くべきところがなくて朝から晩まで家にいるから、結果として妻との関係にトラブルが生じます。そしてそれが日常生活のあらゆるところに支障をきたすようになっていく。
 この「行く場所がない」という問題について、今の日本政府はまったく対処を考えていませんが、これは大変な問題です。六十歳以上の男性は約一五〇〇万人もいます。その厖大な人数がサラリーマンという職種に就いていたがためにあふれているのです。そういう意味では、これは極めて社会的な問題とも言えるでしょう。たとえば、年金財政が厳しいという話をよく耳にしますが、もし彼らに何らかの仕事を与えることができれば、年金受給者を減らすだけではなくて、納税者を増やすことができ、一気に問題を解決できるわけですから。

男は群れることができない生き物

─女性は、カルチャーセンターに行けば共通の趣味友達ができたり、近所にはお茶友達がいたりして、いつも周りに友人がいます。そうして歳を取っても楽しく暮らしているように見えます。一方、男性に友人ができないのはなぜなのでしょうか。

渡辺 それは「男」という生き物の宿命だね。男は、同僚や取引先といった仕事に関係する人を除いて、ほとんど人間関係を持ちません。男というのは、群れることができない生き物なのです。
 奥様族は、大勢の仲間たちと賑々しく旅行したりしますが、男はそれができない。時間もお金もあったとしても、定年後に友達と、「おい、京都にでも行こう」などと言うことはまずありません。結局、男という「オス」は、ほかのオスと戦って「メス」を勝ち取ろうと行動するようにできていますから、群れることがないのです。仕事以外で人とつながることに価値を見いだせない。だから、ちょっと碁を打ちたいと思って碁会所に行ってみたり、俳句を詠みたいと思って俳句の会に入ってみても、どこかしっくりこない。これは多分、生物学的な宿命といってもいいものだろうね。
 とくにサラリーマンという職種の問題に限っても、男が孤独になるカラクリを説明することができます。サラリーマンが企業のなかで出世をするということは、友人を振り捨てることでもあるのです。もし同期で入社した仲間を親友とするならば、その親友を振り切ることが会社内での地位を上昇させることになるのです。だから五十歳にもなって社内に友人がたくさんいるような人は、出世していないということを意味します。そう考えていくと、会社のなかで一番孤独な人は、一番出世をした社長ということになる。つまり一番仕事に励んだ人が一番孤独になる。サラリーマンというのは、そういう過酷な宿命を背負った、ある意味で非常にシビアな職業でもあるわけで。

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