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震災後の社会を切り拓き世界のフロントランナーとなれ

牧原 出(政治学者)

「地震のときは、すぐそこの家にいました。ものすごく揺れました......でも、皿が少し落ちたくらいで、あまり家具とか倒れなかったんですよ」

「実は会社に内緒なんですが、地震のときはたまたま新潟にいたんです。地震があったというので、電気ストーブとか買って家に戻ったんです。小さな孫が二人いるんですが、二人とも家族を助けてくれました。スーパーの買い出しで、孫たち、婿さん二人と私で並ぶんですよ。一人二〇品しか買えないんですが、孫たちも一人分として数えてくれるので、何とか当座必要な食料を買うことができました」

「そのとき海辺の研修施設にいました。『津波が来る!』というので、走って研修棟に何とかたどりつきました。棟の上から私たちを見ていた人が言っていました。『潮が一度引いたとき、海の底が見えた。でもその後起こったことはとても自分の目で見ることはできなかった......』」

 マグニチュード九・〇というまさに地球が震えたともいうべき東北関東大震災の発生。その三日後、テレビが首都圏で計画停電を実施すると報道した日に、東京から自宅のある仙台市中心部にたどりついた。自宅に電気と水道が戻った翌日だった。周囲でも、見たところ明らかに倒壊した家屋や、傾いたビルなどは目に付かない。生活のため、人々は職場の再建につとめ、あるいは明日の食料を探して店の前に行列を作っている。いわば、早い段階で部分的な復旧が進んだ地域であり、津波に襲われ、家が流された深刻な被災地とは様相が異なる。そこでは、生活の再建を果たそうとする中で、知人とも見知らぬ人ともちょっとしたきっかけから言葉を交わす。一見のどかな日常が戻りつつある中、「地震のとき、どこにいましたか?」という問いかけが、会話の第一声になることが多いのである。

 関東大震災後、被災からの復興を主導した内務大臣・後藤新平は、発生時を振り返って「第一救護、第二復旧、第三復興ノ方針ヲ貫徹スルニ努メ、連日閣議ヲ開キテ寸時ノ閑隙ナク、殆ント寝食ヲ忘レテ事ニ当レリ」と述べている。この救護・復旧・復興という段階論は現在の災害対策法制にも受け継がれた考え方である。確かに、メディアは地震直後から深刻な被災地での救助と被災者支援を中心に報道する。そこから見れば、被害の小さい地域の話など、およそ報道の対象ではありえないだろう。しかし、深刻な被災地が救護の最前線だとすれば、市中心部は復旧の最前線である。つまり、被災前へ戻すという復旧のもとで生活のリズムが徐々に形作られ、次第により恒久的な地域を再構築する復興の局面に至る地点にいるという意味で、である。復旧のもとでの生活の様相は多様である。その一端は、何気ない会話に現れているのである。

 救護・復旧・復興の各段階では、これまでもとるべき措置や、そのための手法が異なると言われてきた。だが、今回の震災では何よりも頼りにするメディアが異なった。

 地震発生時の救護段階では、電気も使えず電話もつながらない。すでに指摘されている通り、そこでは特にツイッターが情報源であった。時々刻々と変わる状況を各地点から伝えてくれる。その範囲とスピードはテレビ報道をはるかに上回る規模だった。当時東京にいた筆者にとり、まずは大学キャンパスや家族の住む地域の現状、さらには今回の地震の被害状況を全般として知るのはツイッターを通じてであった。

 そして、仙台に戻り、復旧に携わるようになると、職場や近所での会話、電子メールが瞬時に情報をもたらしてくれた。もはやツイッターを追跡するよりは、噂をもとに実際に現地に行ってみるほうが早い。また、国外の友人が心配してくれたり、国内からは自身の震災体験をメールで伝えつつ、激励してくれたりする。たとえば、浦安の被害状況は、その後新聞報道をにぎわせたが、筆者は早い段階で知人のメールから知ることができた。地震が東北地方にとどまらない広範囲の影響を与えたことを、まずは脳裏に刻み込んだのである。

 このように、インターネットを介した新しい情報ツールの登場によって、テレビの役割は減じつつあるといわなければならない。救護の段階では、被災地では停電により役に立たない。しかもそれが伝えるものは被災の全貌では到底ない。仙台入りしてみると、テレビ報道がごくピンポイントの情報を被災地外に伝えるためのものにしかなっていないことを痛感した。ツイッターでは早い段階から、テレビに生活報道がないことへの不満が見られたのも一例だろう。

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