混乱する日本の「公」と「私」を問う

橋本五郎(読売新聞特別編集委員)×松原隆一郎(東京大学大学院教授)

橋本 民主党にも自民党にも基地が必要だと思っている議員は相当数いるわけですから、この政治家たちが責任を持って引き受けていく仕事と思います。自民党にしてみれば「民主党がめちゃくちゃにした」といいたいでしょうが、ことは国防の基本にかかわる問題です。ここは民主党に協力すべきです。
 米軍基地に話を戻すと、九六、七年に米軍基地として使用している土地の一部で使用期間が切れるという問題が起きました。引き続き米軍用地として使用するためには沖縄県収用委員会の裁決手続きが必要なのです。このとき、小沢一郎氏は「基地問題は国の責任で処理する制度に改めなくてはならない」として、駐留軍用地特措法の改正という小手先ではなく、新規立法を制定すべきと主張しました。正論です。ならば、基本法成立のための努力をしなければいけませんでした。

松原 中央が一方的に地方のことまで決め過ぎて日本を一色にしてしまったのですから、地方分権は当然進めるべきですが、といっても国全体の根幹にかかわることを地方で決められても困る。充分な支援は必要だけれども、最終的な権限は国が持たなければならない。こうしたことこそ最初から仕分け直すべきでしょう。

政治は地道な作業 ネットに振り回されるな

橋本 ポピュリズムについて話をしましょう。昨今、政治も行政も世論に振り回されていることを憂慮しています。この場合、ポピュリズムというのは、みんなが嫌がることをやらない政治のことを指しています。小泉元首相や橋下徹大阪市長もポピュリズム政治の代表格として名前が挙がることが多いのですが、私はこの二人は政策の是非はともかくとして、あれだけの反対や批判を押し切って自分の信念を貫いているのですからポピュリズムにはあたらないと思っています。
 反省すべきは、安倍晋三以降、福田、麻生、鳩山、菅まで、世論調査で支持率が高いとされた人物を首相にして失敗したことです。政治はそんなに簡単にいくものではない。政治がどうやったら支持率の呪縛から脱却できるのか。ここを考えていかねばなりません。

松原 信念を貫く耐久力とともに、政治家には説明能力も求められます。消費税増税は長期的には不可避でしょう。これだけの累積赤字を抱えているのだし、社会保障も改革は必至ですから。しかしバラマキから着手してしまったので、なぜ増税が必要かの説明を民主党はできなくなっています。

橋本 これは民主党政権の弱点なのですが、これまで徹底した議論をしなかった。閉鎖的な印象があった自民党のほうがよほど議論をしています。自民党内にも様々な意見を持った議員がいて、部会で徹底的に戦わせたのです。さんざん議論して、それでも反対の人は最後に退場、全会一致で決まる。そうすると、ここまでは合意できたというコンセンサスもできるのです。
 一方の民主党はそもそも議論をしていないのでコンセンサスがない。だから消費税増税をはじめとして何かに取り組もうとすると一番根っこの部分から短期間で議論をしなくてはならなくなる。

松原 で、反対する勢力が出て割れる。
自民党はあれだけ意見が違う人がいても、そういう文脈での離党はなかった。

橋本 いちいち離党したのではきりがなくなる。それが与党というものです。

松原 リーダーの支持率に話を戻すと、人気があり得票率が高いからといって、それだけで好き勝手に統治させてしまっていいのかという問題はあります。橋下市長などは負託を受けたのだから何をしてもいいといった風情ですが、過去からのルールや識者の知見も捨てていいということにはなりません。伝統芸など地域のアイデンティティーにかかわることまで一気に解体してはいけない。過去から来たものと、現在、人気のある政治家の権限をどう調和させるのか。これも課題ですね。

橋本 反対する議会はとんでもないといって、やりやすいように議会をつくりかえる、というのは神をも恐れぬ行為です。首長と議会は対立し、緊張しながら調整していくべきものなのですから。

松原 調整が難しいものの関係をいかにつなぐかというのが、本来政治に求められる能力です。ぶっ壊して新しいものをつくるだけでは知恵がない。新しい首長が選ばれるたびにそれまでと正反対のことをされてはたまりません。
 政治の深化というものは、複雑なものを複雑なままで最終的にうまく折り合いをつけることです。どんどん単純化されて、そのたび社会の特徴が薄れていきますが、もっと持続可能な社会を模索するべきだと思います。

「国家」対「市民」ではない準公共財を再興せよ

橋本 福島原発や沖縄について考える根幹として、冒頭でも申し上げたように「公」と「私」の関係について考えていく必要があります。
 日本では知識人とされている人たちが「公」と「私」を対立概念のような図式で論じることが少なくありませんが、これだと中間のところが抜け落ちてしまいます。東京大学出版会が刊行した『公共哲学』(全二〇巻)は、世界における公と私の関係をあらゆる角度から論じています。公とは国家のことだけを指すのではなく、これと個人をつなぐものが何なのかということを徹底的に模索しています。
 これを読む中で、松原さんが著書で指摘されている「準公共財」の概念の重要さを思いました。準公共財とは、「私部門での営利活動であっても、そこで生み出された成果が、一種の社会資本になっていることがありうる。それは私と公の間に蓄積された一種の公共財であるから、いわば準公共財」とされている。

松原 日本の「公」と「私」は切れたものと認識されていますが、かつてはその間にあった準公共財に当たる部分を大事にしてきたと思うのです。物的には近所の原っぱであったり。下町でいえば路地は自分の土地ではないけれど、隣近所の邪魔にならない程度に棚に植木鉢を置いたりしている。モラルという心的な現象にも、個人の領域なんだけれども他人に配慮するという公共性があります。

橋本 かつては路地に縁台が置かれるなど、人が集まる空間がありました。

松原 しかし戦後はどんどん私権が強くなっていって、国か個人かしかなくなってしまった。場合によっては家族すら「私」に解体されている。孤独死どころではありません。身元不明や親族が引き取りを拒否した遺体は年間で三万二〇〇〇体に上ります。これが個人主義の行きついた先です。社会、地域、家族のつながりはますます希薄になっている。日本では準公共的な財や領域があってこそ公共空間を市民が支えうるという発想が潰えかけています。
 研究者の世界でも同じことがいえる。米国の哲学者ロールズは公の正義について考える中で、ナチスに対して英国が空爆したのは是だが、米軍が日本に原爆投下したことは「すさまじい道徳的悪行」である――などと論じている。自衛の手段として軍事力を行使すべき条件を、哲学者が当然のように俎上に載せています。

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