混乱する日本の「公」と「私」を問う

橋本五郎(読売新聞特別編集委員)×松原隆一郎(東京大学大学院教授)

一方、日本でリベラリズムの立場に立つ研究者においては「公」とは平和や反戦の文脈でのみ考えられがちで、自衛力の行使などのクリティカルな問題について避けて通る傾向がある。そのうえ、意見を同じくする研究者ばかりで固まるようになり、学会も分断されている。論壇も雑誌ごとに別々の「公」が掲げられ、陣営を横断する役割を果たさなくなってしまった。その結果、たとえば専守防衛体制で軍事力をどう行使すべきかについてリアルな議論の応酬がなされなくなった。対立する意見をぶつけあう場所も、一種の準公共財的な空間なのだと思います。

九十九匹か一匹か

橋本 福田恆存が昭和二十一年に書いた「一匹と九十九匹と」についても考えてみたい。一匹の羊を救うために九十九匹を置いて探しに行くのか、一匹をあきらめて九十九匹を大切と考えるのかという問いに対し、福田は文学者として一匹を大事に考えるという話です。政治の世界でいえば、一人でも反対する人がいれば成田空港は建設できないと考えるべきなのかどうなのか、これは永遠の課題です。
 NHK「ハーバード白熱教室」で人気を博した政治哲学者のマイケル・サンデルは、正義論は「幸福の最大化」「自由の尊重」「美徳の促進」の三つの理念を中心に展開されているとしていますが、何が幸福で何が美徳なのか。難しい問題ですが、これは九十九匹を志向せざるを得ないが、そのためには、充分に手順を尽くさなければいけない。成田の流血から私たちは何を学んで生かしていくべきか。公共性を考える上で避けて通れない重要な問題です。

松原 「幸福の最大化」は功利主義、「自由の尊重」はリベラリズム、あるいはリバタリアニズム、「美徳の促進」はコミュニタリアニズムの立場を表しているもので、サンデル自身は第三の立場を標榜しています。そして、サンデルは議論の決着をつけない中で、大いに売れた。(笑)

橋本 そう。結局どうなんだ、と思いましたね。

松原 日本でいえば明治維新以降は天皇親政体制でまとめて、戦後はそれを棚上げし経済成長でまとめてきた。しかし、九〇年代以降、揺り戻しが来ていて、一定程度コミュニティーの美徳を入れていかないとまとまれない――という反省が生まれた。
 国家という「公」か個人の自由かという二者択一でやってきたんだけれども、それだと国家一色かバラバラな個人かということになり、地域に育まれた美意識とか多様性がなくなってしまう。それをいかに回復するのかというのが次の課題です。私は政治こそが国家の統合と地域の多様性、個人の自由の間でバランスをとる役割を果たし、筋道を立てて説明するものだと考えます。
 サンデルが売れたのも、そのバランスを、倫理の具体的な問題を挙げつつ考えさせたからでしょう。日本でも政治の微妙な問題について我がことに引きつけてしゃべれる人が欠かせません。でないと、東電も記者クラブも、なんでもかんでも陰謀論で片付けるような言論が跳梁跋扈してしまう。

橋本 世の中、そんなに簡単にはいかない――という基本に立ち返らないと、この国は成熟しないと私も思います。

松原 おっしゃるとおりです。

どんな国にしたいのか

橋本 先ほどの『公共哲学』に政治思想史家の渡辺浩さんが日本語における「おほやけ」と「わたくし」、漢語における「公」と「私」、英語における"Public"と"Private"は全然違うと書いている。日本語では両者は切断されていて「上」「下」の関係にあると。漢語の「公」は天下、民の地平から皇帝の高みまで「天下」におけるどの広がりにおいても共通の共同の協同の、そして協働のものは「公」で、「私」とは「公」を妨げるものとして非難の対象だと。英語では"Private"は"Pub-lic"に包摂されない、確固とした独立したものであるという。こうしたことを前提に渡辺さんは、「公共哲学」というのは、プライバシー哲学と表裏をなしていなければ非常に恐ろしいものになる。「公」に内包されない「私」も大事だ――と発言している。
 さて、私たちが公共的なものを考える際にはどうしたらいいのか。福沢諭吉のいうところの「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし」で、やはりきちんと個が独立しているべきと。個があって、集団ができて社会ができていく。それをうまくまわるようにするのが国であるという順序で考えるべきだと。そう考えると、ゴミ施設は基本的に自分の自治体でつくるべきです。まあ、非効率なら別の自治体と協力するという選択肢はあるにしても、です。

松原 個々の家の間に通路があるだけだと、隣との交流がなく味気ない。といって仕切りのない共同住宅では息苦しすぎる。準公共財というのはその中間の領域で、個室は確保しつつ他人と共有しうる領域、路地で他人にみてもらおうと節度を持って飾る植木棚のようなものです。ゴミ施設もそうした準公共財に位置づけるべきじゃないか。多少は不快に感じても、許容限度を守る工夫が必要です。ボイラーの熱で併設のスポーツ施設をまかなうような。

橋本 「公」と「私」は対立ではなくて、結局は私たちがここに住んでよかったと思える場所をつくるためにどうすればいいのかという話です。今度の大震災を機に私たちの住むところをどうするべきかということについてそれぞれの地域で考えてほしい。それが議論の出発点です。
 かつて大平正芳が掲げた「田園都市構想」などは非常に良質な国家のグランドデザインでした。

松原 いまでも充分に通用しますね。

橋本 二〇万人都市をつくって、そこに雇用の場があって、二〇分くらいで自分の家に着いて、田んぼがあって、虫の声と風鈴の音を聞きながら眠りに就く。これは理想郷のような話ではありますが、こうした理想を掲げて国をつくることがどうしても必要です。自分の国はこうあってほしい、という構想を政治に携わる人には持っていてほしい。

松原 国民一人一人にも責任はありますが、準公共財とは何かということについては政治家にじっくりと構想を温めてもらいたいと思います。でないと、一時的な人気を集めようとして壊すことばかりに議論が収斂してしまい、準公共財を生み出すという発想に向かわないですから。これならそこに住みたいというイメージをぜひともつくってほしいですね。

橋本 二十一世紀に入ってグローバル化の進展に伴い国や地域に対するアイデンティティーも消失の危機にあるとされていましたが、今回の震災によってアイデンティティーの回復があったように感じています。大変な不幸の中でこの国も捨てたものではないなと感じている人が多いと思います。

(了)

〔『中央公論』2012年3月号より〕

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