作曲家の立場から見た佐村河内守「代作騒動」

交響曲第一番「HIROSHIMA」の「指示書」を私はこう読んだ
千住明(作曲家)

 書いてあることは非常に単純ですが、すごくいいアイデアでもある。素人が書いているけど、これを具現化したら面白いだろうな、というものです。たとえば、この指示書を一〇人の作曲家に渡したら、すごく面白い作品が一〇できる可能性がある。メロディーが全く違うものが一〇曲。しかし、この指示書を具現化するのは、僕らのように何十年も職人として生きてきた者でないと難しいと思います。

 そして、新垣さんはこの指示書をもらうことによって、世間一般の方々が聞きやすい音楽を作る台本を手に入れたと言えるかもしれません。

◆二人の力が一体となり強力な相乗効果が生まれた

 佐村河内さんは、みんなに聞いてもらうためのツボがどこにあるか、というところに非常に長けている。新垣さんのような現代音楽の修業をしている人は、逆にそこにはあまり興味がない。佐村河内さんのツボと、新垣さんの職人の力が一体となって、強力な相乗効果が生まれたと言えるのではないでしょうか。

 もしも、さきほどのゲーム音楽の例のように、佐村河内さんが断片でもいいからメロディーを作っていたら「HIROSHIMA」は立派な共作です。しかし、作っていないとしたら、作曲とは言えませんから、佐村河内さんの役割はプロデューサー、クレジットを入れるとしたら、「原案」でしょうか。

 会見で、新垣さんは「自分は最後までゴーストライターです」と言っていた。それは、言い換えると、自分の名前だったらこういう曲は書いていないけれど、注文されたから書いた、という意識もあると思います。だからこそ気楽に書けた部分はあるでしょう。

 また、新垣さんにとっては、人の名前でもいいから、自分の書いた曲の音を出してみたい、という気持ちもあったでしょう。自分の書いた譜面を、たとえば八〇人編成のオーケストラが演奏してくれる、ということは、かけだしの作曲家にとって大変貴重な機会です。その音を聞いて、彼もどんどん学んでいった部分はあったと思う。

 もう一つ、佐村河内さんには、耳が聞こえないふりをしていたのではないかという問題があります。しかし、僕らにとって、作曲家は譜面を書くことが大事で、耳が聞こえないということはそんなにたいした問題ではない。そして、なぜ、特にクラシックではハンディキャップをことさらとりあげ、枕詞のようにするのか? という疑問は以前からありました。耳が聞こえる聞こえないということと、音楽そのものは別問題。それが一緒に語られていることは大変に不幸だと思います。

◆音楽そのものは嘘をつかない

 それぞれの音楽家は、自分の能力のすべてを使って音楽を創っている。作曲家がどういう生い立ちであるか、年齢とか、ハンディキャップがあるとか......そんなことはどうでもいいのです。確かにパーソナリティと作品は切り離せないけれど、パーソナリティにあまりに依存するのはよくない。そもそも、音楽は嘘をつかないはずです。

 では、「HIROSHIMA」という作品そのものはどう評価されるべきなのか。

 まず、「HIROSHIMA」がこれだけ愛されたということ、そしてこの作品を演奏したいと思った演奏家がいた──これが、真実ではないかと僕は思います。どのようなシチュエーションで生まれたか、どのようなバックグラウンドがあるのか、ということは作品には本来関係がないはず。僕たちはこの作品が産声を上げて、世の中に出て行こうとしたエネルギーに、素直に脱帽しなければいけない。

 確かに、佐村河内さんと新垣さんの二人は、今後社会から葬られるかもしれません。しかし、そんなことは長い音楽の歴史に比べれば一瞬の出来事です。音楽は時代を超えて残るもの。時間が経てば、作った人がどんな人間かなんて、どうでもいいことになるはずです。

 敢えて言うと、二人は、この曲を作ったことに対して堂々としてもらいたい。もちろん、社会人として責任を取らなくてはいけない部分はある。クローズアップされたストーリーに嘘があるのなら、きちんと罪を償ってほしい。そのうえで、この楽曲を葬らないで済む方法を二人で考えてもらいたい。それが、世の中にこの曲を出した人間の責任だと思います。
(了)

〔『中央公論』20144月号より〕

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