櫛原克哉 繁茂するメンタルクリニック――診断の普及で救われる人、救われない人

櫛原克哉(東京通信大学講師)
写真提供:photo AC
 街中で目にすることが多くなったメンタルクリニック。それはなぜ増加し、患者は何を求めて通院するのか。精神医療について社会学の視点から研究する櫛原克哉・東京通信大学講師が論じる。
(『中央公論』2023年5月号より抜粋)

身近になった精神疾患・障害

「なんか最近うつっぽい」「この子は発達障害かもしれない」。日常生活の中で、私たちは精神疾患や障害を示唆する多種多様な語彙や診断カテゴリーを使うことが多い。うつ病や不安障害のほか、さまざまな障害や症状を総称する「発達障害」も広く用いられているようだ。また、感受性や共感性が強すぎるがゆえに生きづらさを抱える人々の特性を表し、「繊細さん」の呼び名で有名になった「ハイリー・センシティブ・パーソン(Highly Sensitive Person:HSP)」も周知されつつある。

 専門家でなくても人々は自身のメンタルヘルスの状態をそれとなく認識しながら生活しているし、知識がなくてもネットで検索すればすぐに得ることができる。言葉を尽くさずに、こころの状態をある程度伝えられるという点では、これらの語彙は使い勝手がよいものでもある。

 このような心性が日本に根づいたのは、いつからなのだろうか。その前触れとなった出来事として、1980年に米国精神医学会が『精神疾患の診断・統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)』の第3版(DSM-Ⅲ)を刊行したことが挙げられる。これよりも前の時代の米国では、精神疾患は睡眠時にみる夢や幼少期の体験に代表される無意識によって引き起こされると想定されていた。一方、DSM-Ⅲでは、精神疾患の発生の原因を探究するよりも、チェックリスト等を用いて定義・診断することが重視されるようになった。当時の大うつ病性障害(うつ病)でいえば、不眠や自殺念慮などからなる9項目中5項目以上に該当すれば診断がなされることになる。そのわかりやすさもあって、DSM-Ⅲは専門家のみならず一般の人々にも爆発的に売れ、精神科医のアレン・フランセスは大衆化した精神医学の様相を「文化の象徴」と呼んだ。

 ある程度の時間は要したが、第3版以降のDSMは日本の精神科の臨床にも徐々に浸透し、こころを診断カテゴリーで捉える思考も人々の日常生活に根づいていった。自分はうつ病か、それとも不安障害かといったように、こころは分類されるものとなり、精神科医の江口重幸の言葉を借りれば、病や障害は「着脱可能」なものへと変わっていった。

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