櫛原克哉 繁茂するメンタルクリニック――診断の普及で救われる人、救われない人

櫛原克哉(東京通信大学講師)

増加するメンタルクリニック

 精神疾患に関する語彙や診断カテゴリーの普及にともなって自己診断が容易になり、それだけで満足する人も一定数いるだろうが、やはり自身の症状がその疾患に当てはまりそうな場合は、専門家の診断や治療を受けたいというニーズも出てきた。そこでインフラ面から大きな役割を果たしたのが精神科診療所、こんにちの言葉でいうメンタルクリニックである。

 精神科医の森田正馬(まさたけ)(1874~1938)が神経症患者と自宅で共同生活を営んだり、1950年代から70年代にかけて一部の精神科病院が外来診療を行うなど、例外的な試みもあったが、多くの日本人にとって、こころの悩みを専門家に相談するという習慣は90年代頃まであまり一般的ではなかった。精神科診療所は70年前後から徐々に現れ始めたが、診療報酬の低さのほか、来院患者が少なかったことから、この時代の開業医たちにとって診療所の経営は至難の業であった。精神科診療所開設の先駆者である医師の浜田晋(すすむ)(1926~2010)も、開業当初の来院患者が1、2名という日々が続いた経験を書き残している。

 逆境が続く中で、クリニックの名前や標榜する診療科をどうするかという点も、重要な関心事だったようだ。精神科という看板をそのまま出すと、通院に二の足を踏む患者も多かったため、「○×診療所/クリニック」といった形で診療科をあえて明記しない、あるいは精神科の「隠れ蓑」として神経科や神経内科を標榜するといった対策が講じられ、この過程でメンタルクリニック等の和製英語も編み出されてきた。

 1980年代以降になると、外来精神医療の拡充のために活動してきた医師たちの影響もあって、精神科の診療報酬が相次いで引き上げられた。また、平成不況の時代には、24歳の電通の社員が自殺し、過労自殺の問題が注目される契機となった91年の電通事件の影響もあって、職域メンタルヘルスに対する関心が高まり、うつ病の患者が増加するようになる。さらに、新世代の抗うつ薬も導入された。これらの要因が追い風となり、精神科診療所は右肩上がりに増加し始める。今ではどこのメンタルクリニックでも明るい雰囲気のホームページが公開されており、Googleマップで検索すれば、辺り一面に生い茂る植物のように、都市で繁茂する様子をクチコミ付きでみることができる。

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