連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第2回

森功(ノンフィクション作家)

田中英壽元理事長のカラオケ十八番

田中英壽が理事長として権勢を振るった日本大学では、理事や有力OB、取引業者たちが東京・杉並区阿佐ヶ谷の湯沢ビルに足しげく通った。鉄筋コンクリート造り4階建ての湯沢ビルは2階まで「ちゃんこ料理たなか」の店舗で、3階から上が田中夫妻の住まいという造りになっている。日大関係者たちといっしょにちゃんこ料理をたらふく食べ、ほろ酔い気分になった田中は、時折、彼らを引き連れ、ちゃんこ屋の近くにあるカラオケボックスに誘った。「カラオケ サウンドイン」の30人ほど収容できるいちばん大きな部屋に入るなり、田中は決まって言った。

「よし、歌うぞ、吉田松陰を入れてくれ」

側近の教授たちが田中から指示され、カラオケのコントローラーを手に星野哲郎作詞、浜口庫之助作曲「吉田松陰」を入力する。演歌歌手の尾形大作が歌う幕末シリーズのなかのヒット曲だ。

「時と命の 全てを賭けた、吉田松陰 憂国の、夢草莽に 果つるとも~」

田中の名調子が広い部屋に響き、そばにいる夫人の優子(本名・征子)も満面の笑みで夫の歌に聞き入る。阿佐ヶ谷のカラオケボックスでは、そんな光景が幾度となく繰り広げられた。

田中は明治維新の父と謳われた吉田松陰を師と仰ぎ、その教えに習って大学運営を心掛けてきたと周囲に吹聴してきた。実は2016年4月、世田谷区の三軒茶屋キャンパスに新設した危機管理学部は、松陰の提唱した国家の安全保障を学生に学ばせよう、と新たに設置したのだという。少なくとも田中自身、幕末の英雄に思いを馳せ、側近たちにそう語ってきた。

明治時代における日本の私立大学の起こりといえば、誰もが真っ先に早稲田の大隈重信や慶応義塾の福沢諭吉を思い浮かべるに違いない。反面、日大と吉田松陰との奇縁についてはあまり知られていないのではなかろうか。

日大ホームページを覗けば、それがよくわかる。日大をつくった学祖とされる山田顕義の師が、幕末から明治維新にかけ活躍した吉田松陰だった。もとはといえば、山田にとって、松陰は長州藩の軍政を司った伯父、亦介の教え子であったという。さらに遡れば、長州の藩政改革を率いた村田清風が山田顕義の大伯父にあたる。松陰が薫陶を受けた人物だとされる。

そうしたつながりがあり、14歳になったばかりの山田顕義は1857(安政4)年、松下村塾の門をたたいた。ところが入門2年後の5910月、師の松陰が安政の大獄で処刑される。そこから山田は同門の高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨や品川弥二郎らとともに攘夷の血判書「御楯組血判書」に名を連ね、明治維新に向けて奔走するようになる。

そして山田は明治維新後、師の吉田松陰の教えに従い、欧米の軍や法の制度を学んだ。維新政府で初代司法大臣に就き、日大の前身である日本法律学校を創設したのである。そんな歴史的な背景があり、日大の歴代総長や学長たちは、学祖の師である松陰の教えを意識せざるを得なかった。田中の危機管理学部新設も似たような発想だったのであろう。現在の日大HPにも、大学の〈理念(目的及び使命)〉として、次のように記している。

〈日本大学の前身である日本法律学校の創立目的は、「日本の法律は新旧問わず学ぶ」「海外の法律を参考として長所を取り入れる」「日本法学という学問を提唱する」 という3点。

欧米法教育が主流な時代にあって、日本法律を教育する学校の誕生は、大いに独自性を発揮することとなりました〉

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