連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第2回

森功(ノンフィクション作家)

山岡萬之助と古田重二良

大正末期から昭和初期、戦中にかけ、日大はまさに苦しい時代を迎えた。1923(大正12)年91日には関東大震災に見舞われ、東京の街全体が破壊された。大学に昇格して新築したばかりの日大では、総長の松岡が静養先の葉山で死去した。挙句、震災で神田の三崎町校舎をはじめ、駿河台の歯科・高等工学校の校舎など、すべての施設を失う羽目になる。11月には松岡に代わり、平沼が総長に就任し、山岡萬之助が学長に就いた。平沼・山岡の総長・学長コンビは三崎町の焼け跡にバラックを建てて本部事務所代わりにし、仮校舎を建てて講義を再開させたという。それでも日大は総合大学を目指し、法文学部に文学科を加え、商経学部に経済学科と工学部を設置し、さらに専門部のなかに文科、経済科、医学科、工科、拓殖科、高等師範部に地理歴史科と英語科を置いた。この間、太平洋戦争の勃発した明くる1942(昭和17)年という戦時下にありながら、医学部をつくり、翌43年には農学部を新たに設置した。

だが、太平洋戦争によりそれらの校舎もすべて焼き尽くされた。

そんな戦中、戦後に日大を率いたのが山岡萬之助と古田重二良である。なかでも古田は日大教員や職員のあいだで、終戦後、飛躍的に大学を大きくした立役者として、今も語り継がれる。大学中興の祖として日大HPでも次のように持ち上げている。

〈日本大学は、戦前において第3代総長山岡萬之助を中心に、人文・社会・芸術・工学・医学・農学など広い領域にわたる学部・学科を創設し、総合大学の基盤を築きました。そして、戦後において会頭古田重二良を中心に、「世界的総合大学」をめざして、理系の学部・学科を中心に増設し、財政基盤の確立に努めました〉

古田は1901(明治34)年6月、秋田県河辺郡下北手村(現秋田市)に生まれた。1920(大正9)年に秋田から上京し、1年後の翌21年9月、日本大学専門部法律科特科へ入学する。日大会頭に昇りつめ、首相時代の佐藤栄作をはじめとした自民党タカ派の国会議員たちとともに大学を右傾化させ、日大紛争を呼び込んだ経緯はのちに詳しく触れる。古田は法律科に入学すると、柔道部の主将として鳴らした。その点では青森県から上京し、日大相撲部のエースとして学生横綱に輝いた田中英壽とも似ていなくもない。

1966(昭和41)年4月、この古田を身元保証人として日大法学部に入学したのが、元商学部教授の根田正樹である。こう振り返った。

「古田重二良先生は戦後の日本における私立大学の歴史そのものを体現しているような方でした。JR飯田橋駅近くの東五軒町というところにご自宅がありました。私は古田先生と同じ秋田出身ということから、身元保証人になっていただき、そこに住んで大学に通いました。ご自宅はたしか5階建てのビルだったと記憶しています。先生ご自身が1階に住んで、2階以上を学生の寮にしてわれわれに部屋を提供してくれていました」

田中の経営する「ちゃんこ料理たなか」のすぐそばには相撲部の合宿所があり、そこには今も日大の相撲部員が暮らしている。相撲部のエースだった田中は古田が糾弾された日大紛争の折、大学執行部側に雇われ、バリケードの粉砕に駆り出された。(敬称略・つづく)

森功(ノンフィクション作家)
1961年福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大学文学部卒業。新潮社勤務などを経て2003年に独立。2018年、『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪』『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数。
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