連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第3回

森功(ノンフィクション作家)
写真提供:photo AC
戦前の旧制大学時代、多数の高等文官試験合格者を輩出するなど、法学部を中心とした総合大学の基盤を築いた日本大学。戦争の影響で縮小を余儀なくされた日大で、戦後になって各学部を復活させるだけでなく、理系の学部・学科を中心に増設し、財政基盤の確立に努めたのが古田重二良だった。産学連携を推し進め、保守政財界にもネットワークを築いた古田の大学運営は「経営主義」として、日大全共闘から批判を浴びることになる。

戦後の混乱期に存在感を高めた古田重二良

古田重二良は戦後、新たな学部を次々と創設した。のちに理事長になる田中英壽は、奇しくも古田会頭体制時代に日本大学に入学し、相撲部で活躍した。田中は日本の私立大学の頂点に君臨した日大中興の祖を仰ぎ見て学生生活を送り、自らも大学職員となってトップに昇りつめた。理事長の座を得ると、さながら古田に倣ったかのように大学の拡大路線を進める。田中にとって古田重二良は大学運営における師といえる。

日大高等専攻科法律科に入学して柔道部の主将として活躍した古田は、1924(大正13)年7月に日大専門部法律科を卒業し、同郷の法文学部教授圓谷弘の推薦により、翌25年4月に日大高等工学校の事務職員として採用された。

大学職員となった田中が相撲部の監督となり、学内の影響力を増していったように、古田もまた学生時代の柔道部主将から職員となって柔道師範となり、学内に睨みを利かせた。折しも日大は古田が日大職員になった同時期に大阪に日大専門学校を増設し、それがのちの近畿大学となる。近大もまた相撲部をはじめとした運動部を強くして大学を拡大していった。

若き古田の職員時代は、日本社会全体が第二次世界大戦に翻弄された。ことに1941(昭和16)年12月に日米が開戦して太平洋戦争が始まり、次第に戦況が悪化すると、学生も戦地に駆り出された。大学は授業どころではなくなり、終戦間際には米B29爆撃機が東京をはじめとした日本の主要都市を次々と破壊した。多くの校舎を失った日大は学部を縮小し、終戦を迎える。

日大は学長や理事長に代わる大学トップとして総裁制を敷いてきたが、終戦間際の1945(昭和20)年7月、理事長制を導入して総裁空席のまま呉文炳が理事長に就任した。このとき古田自身は工学部(現理工学部)事務長に出世し、終戦直後のカオスのなか、理事長である呉の側近として戦後の日大復活に向けて奔走した。

日本がポツダム宣言を受け入れて全面降伏した2か月後の4510月、米占領下で幣原喜重郎内閣が成立。米占領軍(GHQ)は日本国内における旧日本軍の勢力を一掃すべく、国内にさまざまな統制を敷いた。教育分野では、「日本教育制度に関する管理政策」を発布し、神道教育を禁止した。

しかし、第二次大戦後の世界情勢が米国の日本占領政策を一変させた。ヤルタ体制下で日本の植民地の扱いを協議してきた米英と中ソが対立し、やがて米ソの冷戦時代に突入する。50年6月には、日本の植民地だった朝鮮半島の統治を巡って朝鮮戦争が勃発した。GHQは中ソの影響を受けた日本国内の共産主義勢力や労働組合運動の台頭に危機感を抱き、国内のレッドパージに乗り出す。

古田が日大で存在感を増していったのは、そんな混乱期と重なる。日大は終戦1年後の467月、それまで大学の最高ポストとされた総裁を会頭に改め、呉が理事長のまま会頭に就いた。会頭就任のお膳立てをしたのが古田だといわれる。

おかげで古田は48年4月、日大の参与理事、49年2月に評議会会員と出世し、さらに12月には呉会長の懐刀として理事長に就く。その直後の50年2月、日大では教職員のレッドパージが始まった。

東西冷戦の世界情勢を反映するかのように、終戦から1950年代にかけ、日本国内にもさまざまな政治勢力が入り乱れ、保守と革新それぞれの政党が分裂や合併を繰り返した。革新勢力では、終戦を機に労農マルクス主義の左派と反共の右派、中間派の3派がいっしょになり、日本社会党が発足した。47年5月には、社会党委員長となった右派片山哲が他の革新政党を巻き込んで連立内閣を樹立する。だが、その片山内閣も1年も持たず48年3月に瓦解し、左右両派の対立により、党内が分裂する。社会党は51年、サンフランシスコ講和条約を巡り、中ソに近い社会党左派と西洋型社会主義の社会党右派に分かれたが、どちらも選挙の議席が伸びなかったため、両派は5510月の党大会で再びいっしょになり、新生社会党が誕生する。 

1  2  3  4