連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第4回

森功(ノンフィクション作家)

 大学当局につぶされた学生会執行部

こうした世界情勢のなか、日大生の中にも従来の御用自治会である学生会を変えようと試みる動きが始まる。その中心がマルクス、エンゲルスを学んだ経済学部の学生たちだ。

66年から経済学部学生会の執行部にいた廣瀬幸一と鈴木一雄という2人の幹部に会えた。廣瀬が鈴木の1学年先輩にあたり、ともに書記を務めてきたという。廣瀬が日大闘争の端緒について打ち明ける。

「それまで日大経済学部の執行部は明らかな大学側の御用組織でした。そこから変わろうとしたのが藤原(峯雄委員長)執行部でした。まず66年の後期になって、11月の『三崎祭』という大学祭に芝田進午を講師に呼んで講演会を開こうとしたんです。ところが、大学当局がそれを許可しなかった。それに対してみんなでキャンパスに泊まり込んで抗議した。それもあっけなくつぶされてしまった」

芝田は東大文学部哲学科を卒業後、67年に法政大助教授から教授となった哲学者だ。日本共産党員、マルクス主義者として社会運動にかかわり、当時の学生に人気が高かった。もとよりベトナム解放論者でもある。芝田が保守政治とともに歩んできた日大の古田と相容れるわけがない。そのせいで藤原執行部はつぶされてしまう。廣瀬が続ける。

「私自身はもともと理工学部に入ったんです。けれど、理工学部そのものは私の好きな学問でもないし、日本国内の学生運動が盛り上がってきた時期でしたからな。日大はえらく押さえ込まれて何にもできない。そういう不満があったんでやろうと思ったんだけれど、理工学部では周りにそういう連中がいないわけです。これはあかんな、と思って、文系にチェンジしたんです。もともとの学生運動は、社研(社会科学研究会)や経済研究会とか、文系の部活が中心になってきました。なので、経済学部に移ると、すぐに社研に入って学生運動にどんどん身を染めていきました。そういう経歴があって、同期生の4年生の藤原を担いで、3年生と4年生で藤原執行部をつくったんです。3年生のとき経済学部に転入したので5年間大学に通いました」

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