岩村暢子 消えた「おふくろの味」――昭和の「おばあちゃん」は、なぜ家庭料理を伝承しなかったのか?

岩村暢子

――自分が言われたことを子どもにも強制するのではなく、子どもには無理をさせない、嫌がることは強制しない、という価値観になったんでしょうか。

 

「新おばあちゃん」たち自身が、そういう育児をしてきたからです。「新おばあちゃん」たちが親になり始めた1960年以降、日本は育児書ブームになります。1960年には各社競って出したから何十万部も売れるほどでした。松田道雄の『私は赤ちゃん』(岩波新書)が出たのもまさに1960年ですが、育児書がこの年の書籍ベストセラーになったくらいのブームでした。食にかかわらず、育児観、教育観が大転換した時期と言えます。

当時の育児書を読むと、「子どもの言い分を聞きましょう」「無理強い・強制はいけません」「子どもの自主性を大切に」「何事も子どもが楽しくできることが大事」などと書いてあります。戦前の教育思想への反省から、子どもの「個」の尊重が重視されるようになったのです。彼女たち(新おばあちゃん)新教育を受けた世代には、戦争への反省や古い家制度的な家族観への反発もあって、瞬く間に浸透していったものです。

 

――2013年に出された『日本人には二種類いる』は、副題に「1960年の断層」とあるように、1950年代までに生まれた人たちと、先ほどの「新おばあちゃん」の子ども世代に当たる1960年以降に生まれた人たちとの違いを書いておられます。

 

1960年以降に生まれた人が子どもを持ち始めたとき(1980年代半ば~)、祖母となる「新おばあちゃん」たちは育児の手伝いはするけど口は出さない、という人が多くなっています。インタビューすると、自分たちが育児書を参考に前の世代とは違う新しい育児をしてきたから、娘世代にも新しい情報を参考に、時代に合わせた育児をするよう応援したかったと。

昔は「育児書」でしたが、娘世代が参考にしたのは、もっと情報が早い月刊誌を中心とする「雑誌」情報でした。今なら「ネット」情報でしょうね。

そこで、1960年以降生まれの人が出産し始めた1985年前後は、月刊の出産・育児雑誌の創刊ブームが到来します。『P.and』(小学館)が85年、『マタニティ』(婦人生活社)も85年創刊、『Balloon』(主婦の友社)は86年創刊でした。

親子(母娘)いずれの出産・育児にも共通するのが、身近な経験者の「経験」や「伝承」によるのではなく、外部の「最新情報」を優先する出産や育児であったこと。新おばあちゃんたちは、自分の経験を押しつけずに娘と一緒に新情報を得て「今はこうする方がいいのね」と言いながら出産・育児を手伝ったと話してくれました。

 

――「新おばあちゃん」の世代が戦後の価値観の大きな変化の中で、最も大切なものと考えたのが子どもの「個性」であり、「自由」の尊重だった。最新作『ぼっちな食卓』では、その行き着く先を、同一家庭の10年後、20年後を追跡調査することで描かれています。「個」というと通常は、個性とか、集団主義に対する個人主義のように、わりと肯定的なイメージで語られることが多いですが。

 

そうですね。もちろん、とても大切な価値観だと思います。

『ぼっちな食卓』には、家族一人一人の「意思」を尊重する親や「個」の尊重を重視する家族の姿がたくさん出てきます。そんな家庭の「食卓」も、たくさん見られます。

ただ、個々の意思を尊重したその食卓光景は、私たちが頭の中で想像するのとは少し異なることが、大変気にかかります。

例えば、家族それぞれの都合を尊重したためにバラバラな時間にバラバラな場所で食べる「孤食」や、異なる好みを尊重し合った結果、みんな違うモノを食べる「個食」が日常茶飯になってきている。また、個の意思や自由を尊重してこそ「楽しい食卓」が実現できると親は口々に語るのですが、その結果、家族皆揃って同じものを食べることすら難しくしている。なぜだろう、何と皮肉なことだろう、と私は思うのです。

そこで、さらによく見ていくと分かるのですが、そこで尊重しているのは個々の「意思」ではないのではないか、と気づいたのです。尊重しているのは、きわめて「欲求」に近いものではないかと。

「私は、これが終わってから後でゆっくり食べたい」「私は、一人で先に食べてしまいたい」「僕は、肉だけガッツリ食べたい」「俺は、ご飯より麺類がいい」。こんな自分の欲求ばかりが語られ、無理強いも強制も「してはならない」。ならば、バラバラの孤食・個食になって当然です。

果たして、これは人間の「個」の「意思」の尊重と言えるのか。私は、「意思」と「欲求」は異なると思っています。一見似て見えますが、具体的な場面ではしばしば逆向きに働きさえする。

「今食べたい」「一人で食べたい」「全部食べたい」「肉だけ食べたい」「好きなモノだけで腹いっぱいにしたい」――これはみんな、人のむき出しの「欲求」。しかし、人間は考えます。「ちょっと待てよ。それより、みんな揃って食べたほうがいいな」「いやいや自分一人で平らげずに、みんなで分けて食べよう」「好きだけど、こればかり食べていると身体に良くないな」等々。それを支えるのは「意思」の力で、人は意思によって「欲求」を抑え、超えることができる。そして、誰かに合わせて待ったり、人と分け合ったり、偏らずにバランスよく食べたりすることもできる。

人間が大人になるということは、「欲求」を自分の「意思」の力で(状況に応じて)自在にコントロールできるようになることなんじゃないですかね。それは自分の欲求を抑圧することではなく、意思の力で、自分自身のためにも他者との関係のためにもより良い行動を選べるようになるんだと思うのです。

もし、「意思」と「欲求」を取り違えて「尊重」していったら、自分の「欲求」を強引に通してしまう人や「欲求」が通らないとキレる人を育てることになってしまいそうです。『ぼっちな食卓』で10年後、20年後を追跡した家族の中には、そんな事例がいくつも出てきます。あるいは、個々の自由を尊重するために、深い関わりを避けるようになった家族や家に寄り付かなくなった子、一緒に暮らせなくなった夫婦や親子の姿もありました。

これらは今、あちこちの家族に起きている実に難しい問題となっているのではないでしょうか。

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