連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第7回
田中英壽と日大紛争
1965(昭和40)年4月に日大経済学部に入学した田中は、3年生のときにその後の人生を決定づける大きな分岐点を迎えた。それが、前述した学生横綱のタイトル奪取、そしてもう一つが68年に起きた日大紛争である。日大紛争はまさに田中が入学した経済学部で火が付いた。自叙伝『土俵は円 人生は縁』(早稲田出版)でも、短くこう記している。
〈3年になると、あの有名な「日大闘争」が始まり、およそ1年半というもの、大学の構内には闘争中を示す旗が何本もひるがえって、授業らしい授業はほとんどありませんでした。とてもできるような状況ではなかったんです〉
さすがに相撲部員として左翼学生の封じ込めに奔走したとは書いていない。だが、日大全共闘の資料には、応援団員や体育会系学生とともに大学本部執行部のボディーガードになった相撲部の「田中英壽」の姓名が記録されている。左翼学生が田中を大学側の手先のように見てきたのも事実だ。自叙伝では田中と大学側との関係について少しだけ触れている部分もある。
〈授業を受けて、単位をもらわないと卒業はできませんので、夏、大学側は、埼玉県の所沢市の工場を借り、机とイスを並べただけ、という即席教室で集中講義をやり、私もそれに出席してなんとか所定の単位は取得しました〉
学生運動の燃え盛るさなか、左翼学生にとっては大学側の用意した講義に出席すること自体が裏切り行為に映ったに違いない。そんな日大本部執行部と田中の関係を知るうえで、見逃せない写真が、くだんの自叙伝に掲載されている。
〈学生横綱祝勝パーティにて〉とキャプションのついたスリーショットのスナップ写真がそれだ。短髪で学生服姿の田中本人が3人の真ん中に立ち、畏(かしこ)まっている。瓶ビールを両手で持ち、談笑している左右の2人に酌をしようとしているように見える。写真は左側の男が〈恩師・橘喜朔先生〉、右側が〈古田重二良先生〉というキャプション付きだ。
改めて説明するまでもなく、古田は総長や会頭を歴任し、戦後の日大を日本一のマンモス私大に育て上げた中興の祖である。首相の佐藤栄作をはじめとした自民党の保守政治家と気脈を通じ、右翼組織「日本会」を率いて日大紛争のときには左翼学生の標的にされた。また、橘はその古田体制下で保健体育局長として相撲部の後ろ盾となり、田中を日大にとどまって職員になるよう勧めた張本人である。自叙伝には、このスリーショットの下に、田中と輪島博が橘を囲んでいる写真も載っている。橘は田中にとって文字通りの恩人だ。
田中英壽は4年生のときに相撲部のキャプテンとなり、日大紛争渦中の69(昭和44)年3月に卒業すると、東京・世田谷区下馬にあった農獣医学部の体育助手という教員見習いとして大学で働き始めた。そこはアウシュビッツ校舎と呼ばれ、高いバリケードに囲まれた大学本部側の牙城でもあった。もっとも体育助手の教員見習いといっても名ばかりで、実のところ農獣医学部の"守衛"であり、ボディーガード役だった。
田中は大学卒業後もコーチとして相撲部に籍を置き、杉並区阿佐ヶ谷にある相撲部の合宿所近くにアパートを借りて稽古を続けながら、しばらく下馬の農獣医学部に通った。前に書いたように、大学3年で学生横綱となった田中はその後、3度のアマチュア横綱に輝いている。
そして日大紛争が収束すると、田中は教員見習いから保健体育局の職員に転じ、大学本部に通うようになる。そこで便宜を図ったのも、保健体育局長だった橘だという。