連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第7回

森功(ノンフィクション作家)

 古田重二良をしのぐワンマン理事長へ

日大保健体育局はその名称通り、運動部の有名選手たちが職員として配属される部署だった。半面、そこには裏社会の影もちらついてきた。それが、会頭の古田重二郎や保健体育局長の橘喜朔時代から大学組織の中枢として機能してきたといえる。

住吉連合会の小林に連なるという村中は、全日本ウェルター級1位にランクインした輝かしい戦績を残している。全日本大学王座決定戦で11回の優勝を果たしている名門日本大学のボクシング部の長い歴史のなかでも、屈指の名選手として知られた。日大を卒業したあと村中は、相撲部の田中より一足先に保健体育局の職員として日大に残り、後進の指導にあたるようになる。内田の最初の配属先となった日大保健体育局では、田中が内田の上司で、その上司が村中という関係だったという。

「私が就職したときの田中先生は、たしかまだ体育課の主任だったと思います。その上がボクシング出身の村中体育課長、さらに山本厚、森山憲一という2人の局次長がいて、トップの局長が浜中一泰先生でした。就職したばかりの私自身の体験でいえば、あの(元安藤組組長の)安藤昇さんが体育局にやって来て、お茶を出したこともあります。学生や他の職員がいないときは新米の私がその係になるのです。浜中局長がしばしば安藤さんをお連れするので何度もお目にかかりました。昔は体育局自体にそういう関係がありました。森山先生はのちに高校相撲界の強豪である埼玉栄の理事長になりました。また森山先生は長崎出身で、学生時代には芝浦にある住吉会の大親分の家に住み込んでいたこともあったみたいです。親分が飼っていた愛犬の散歩係をしていたと聞きました」

安藤は終戦間もない混乱期に法政大学の前身である法政予科を中退して愚連隊を結成し、渋谷を中心に暴れまわった。作家の安部譲二も安藤組の組員だった時期がある。安藤は東京出身だが、むしろ地方から上京した同世代の私学生にも似たようなケースもあった。大学を卒業した後就職先に困り、その筋の厄介になったのが高倉健だ。明治大学を卒業した福岡出身の高倉も住吉会系の組長宅に住み込み、そこから俳優デビューした。終戦の混乱期から高度経済成長期に入るまでの日本では、それほど私大や芸能・スポーツ界と暴力団組織の関係は密接だった。内田が言葉を選び、やや迷いながら説明を続けた。

「こんなことを話していいのかな。森山先生は大学時代に組長宅の住み込みをやっている傍ら、応援団の部長もしていました。応援団には古田重二良先生、加藤修先生(元日大理事)、森山先生という系譜があり、加藤先生は日大紛争の頃からの応援団のボスで、その弟子筋が森山先生でした。それで森山先生は卒業して大学の本部に就職し、私がいた頃には保健体育局の次長になっていたわけです」

保健体育局の主任だった田中英壽は、古田重二良以来、日大に連綿と続いてきた組織運営の手法を学び、継承していった。そしてかつての恩師、古田をもしのぐワンマン理事長となる。(敬称略、了)

森功(ノンフィクション作家)
1961年福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大学文学部卒業。新潮社勤務などを経て2003年に独立。2018年、『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞。『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪』『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』など著書多数。
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