千葉雅也「失われた時を求めて」を求めて

千葉雅也(作家・立命館大学大学院教授)
 ネオリベラリズムとコロナ、フーコー、そして時間と悪……。『勉強の哲学』『ツイッター哲学』などの著書もある、哲学者・小説家の千葉雅也氏による「時間論」序章。

タバコとコロナ

 この間あちこちでタバコが吸いにくくなったことを惜しむ発言をしているのだが、昨年の四月以降、屋内原則禁煙になったのは、喫煙者としてはコロナ問題より大きいくらいである。ついに本格的に風景が変わってしまった。歴史に深く漆黒の溝が刻まれたかのようだ。それは禁煙推進、嫌煙の人々にとっては良いというか当然しかるべき変化なのだろうが、僕としては人類の何か貴重なものがついに失われてしまったという暗い感慨に浸らざるをえないのである。

 個人的嗜好としての喫煙の肩身が狭くなったというだけではなく、そのことは世の中の全体的な変化と結びついていると僕は考えている。

 昨年から我々はコロナ禍にあり、マスクをして飛沫を防ぎ、頻繁に手を洗い、できるだけ接触を避ける感染防止策が新たな日常になっている。もちろん必要なことなのだけれども、それは、この十年くらいで強まってきた、自己と他者の意図せざる「混交」を悪だとする価値観念と共鳴しているように感じるのである。

 このコロナ禍は喫煙者にとっても直接的な不利益があり、喫煙所は「密」になるから閉鎖するといったことがあるわけだが、それ以上に、昨年からの屋内禁煙化は、個人を分離し、個人のセキュリティを守り、自己と他者の境界が揺らぐような関係性をなしにしていこうというコロナ禍の空気と一致しているのではないか。

 ネオリベラリズムによって個人がバラバラになる方向が進んできたなかで、そこにコロナ問題が、まさにその政治経済的状況のメタファーであるかのように起きた、という感覚すらある。バラバラになるというのは、ひとりひとりが自助努力によってグローバル資本主義の苛烈な競争をサバイバルしなければならないという状況である。そこにおいて自分の身体というのは戦う身体であり、それを無駄に悪しき食事習慣や嗜好品などによって傷つけるのは、ごく単純にサバイバルの観点からしてマイナスであるというわけだ(筋トレブームもこうした空気に属するものと言える)。自分だけでも生き残ろうという必死の戦いを演じる身体を、ましてや他人によって不健康にされることなどあってはならないというわけである。この意味で、ネオリベの激化と、自分の身体をクリーンに保ちたいということはくっついているのである。

 他方で、ネオリベを批判する左派=リベラルは、差別やハラスメントといった悪しき取り扱いから他者を守ろうとするわけだが、この他者を守るというのが、ネオリベ側での自己を守るというのと、結局は「互いに身体を分離する」という意味で似てしまう。ネオリベを支持する右側と批判する左側のどちらもが「身体の境界の曖昧さ」を許さない方向に向かっており、今タバコはその曖昧さの象徴のように見えている。

 最近、ミシェル・フーコーの「性の歴史」第四巻『肉の告白』─これをおおよそ完成させてフーコーはAIDSで亡くなり、死後出版は禁止されていたが、それがようやく刊行、翻訳された─を読んだ。そこでフーコーは、自分の内に本来的な罪=原罪を抱え込んだ主体というキリスト教の主体観を精緻に分析している。キリスト教において、人間における悪とは、意志のコントロールから外れるもの、いわば何かを「やらかしてしまう」とでも言うような非意志的なものを指している。人間は、意志でコントロールできる理性的な部分と、非意志的な部分に分裂したものとして捉えられる。非意志的なものが意志を凌駕し、コントロールから外れたことをなすというのが罪なのである。だから、たえずその非意志的な部分に身を任せないよう反省し、自己監視することが求められる。その悪から解放されることはありえず、だから、自分を意志で統御せんとするおのれとの闘いを続けなければならない─これがアウグスティヌス以後に確立された道徳である。非意志的なものの最たるものが性であり、その文脈はここでは省略するけれども、ともかくキリスト教を背景として成立した近代的主体観では、非意志的なもの(=性)の勝手な作動が人間の根源的な悪だということになっている。

 反省してコントロールする、ちゃんと明確に意志でコントロールできなければいけない─というのは、常識・良識の基本として今でもあらゆる場面で言われる、というかますますその要請は強まっていると思う。これが近代性、モダニティの重要な特徴なのだが、それは神の絶対的意志というキリスト教の教義とつながっているわけだ。

 なんとなくで流されて生きるのではいけない。だから、生活習慣をすべて意識化し、いちいち記録をとって、たとえば自分の体の状態をスマートウォッチでモニタリングするといった技術を現代人は賞賛している。見えないものをどんどん可視化していき、無意識の部分がないようにしていく。見えるような見えないような、モヤモヤしたものはよくないのだ。あまねく技術の光に、技術化された神的な光に照らされた世界が目指されている。そうした兆候が現代のいたるところにある。だが、可能な限りあらゆる事象をコントロールすべきだという価値観は大変疑わしいものである。

 大きく言って、すべてを数値にして管理するなら、その情報はどこかに集約されて大規模な管理社会の実現につながる。なんとなくで生きてしまうことを強く罪悪視するなら、データにもとづく集約的な意思決定のコマとして生きる方が、罪から逃れられるからいいということになるだろう。不確かな自分自身にもとづく判断ではなく、何らかの絶対的な権威(その背後には神がいる)に服属すれば生・性を浄化できる、救済されると思うようになるだろう。万事が神の絶対的意志に一致しているキリスト教的楽園に似たものとして、超管理社会がある種の宗教性を帯びた理想状態として実現されることになる。

 そこで、もしそれは何かおかしいと思うのだとしたら、その直感において人間の自由とは何かと改めて問題にしなければならない。以上の文脈において、人間の自由とは、神に背く悪としての自由に他ならない。そう言うと壮大な話なのだが、問題は悪をどうポジティブに考えるかなのである。確認だが、ここで悪と言っているのは、非意志的なもののことである。我々人間の意志のコントロールから逃れた「だらしない」ような部分を引き受けること、それは「神のファシズム」に対する必要な反逆なのだ。

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