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千葉雅也「失われた時を求めて」を求めて

千葉雅也(作家・立命館大学大学院教授)

失われた「時間」

 ジル・ドゥルーズは一九九〇年代に、管理社会化の進展に警鐘を鳴らしていた。かつては強力な権力機構による自由の制限が問題だったが、それより日常的にソフトなやり方で作動する平常点管理のような権力の方がずっと息苦しいだろうという懸念。我々は今、このドゥルーズの懸念がまさに実現された状態を生きている。そして、この状態は九〇年代から二〇〇〇年代にかけての変化以後なのであり、それ以前には別の世界─というか僕の世代からすればそれが「本来」の世界なのだが─があったということがますます忘れられている。それはあたかも、マスクをしないでも人と会えて、すし詰めのライブ会場で叫びを上げるのが普通だった時代が忘れられつつあるかのごとくだ。

 強く言えば、人間が個人ではなくなる方向に向かっている。個人的であること自体が悪だというかたちで、伝統的な悪の問題が今日再発見されている。公共的存在として生きるのが善だというのは、楽園を目指すことである。だが今改めて、悪の権利を言うべきではないのか。必然的になされるべきことだけが行われるのではなく、時宜に合わない出来事が起きるのが時間のリズムである。個人たちの時間。それがなくなれば、世界は永遠である。時間がない。歴史がない。世界は全体として歴史がなくなる方向に向かっているのではないか。

 おそらくこれから、時間の概念が哲学的に問題になってくるだろう。人間の経験にとって時間とは何なのか─それは必ずしも物理学的な時間の定義と同じものではないだろう。人間が自分自身に意味を与え、生・性を組織化するために用いられる時間とは何なのか。それと科学との関係をどのように考えるべきなのか。今その詳細に立ち入ることはできないが、個人的実感として言えるのは、一方向的に進んでいくものとしての時間が、その実感が、ある時期から失われたということだ。

 レコードやカセットテープが一方向的に音楽を再生するあの時間。それを今僕は懐かしく思い出すのだが、これは単なる中高年のノスタルジーにすぎないのか。こんなことをネットで言えば、懐古趣味だという批判は避けられないだろう。だが僕は、世代的使命でもあると思うのだが、このノスタルジーに沈潜する必要を感じている。すべてがデータになり、データベースに登録され、整理、再構成の対象となった時代には、時間の秩序が空間的な並置と変わらないものになり、あらゆる時点を好きに行ったり来たりし、歴史がランダムに反復されることになる。デジタルデータで音楽を聴くようになって以後、我々の時間感覚はそのようなランダムアクセス的なものに変わった。それは大変便利なのだが(かつて、瞬間的に曲の「頭出し」をすることにどれほど憧れたことか)、その状態に慣れるにしたがい、あらゆる事物が似たり寄ったりになり、ひとつのものに特別な興奮性を感じる経験が弱くなったように思う。それは僕が歳をとったからだろうか。今でも若者が何かに夢中になるのは昔と変わらないのだろうか。

 何かが一回的に通過していくという感覚─言い換えれば「出来事の出来事性」─が、かつてはもっと強烈にあったと僕は思う。かつて、ノスタルジーというのは一回的に通過したものへの追慕のことであった。だが今日では、「何事かが一回的に失われるということそれ自体が失われた」という、一段階メタレベルが上がったノスタルジーが生じている。これは「二階のノスタルジー」とでも呼ばれるべきものだ。いわば、「失われた時を求めて」を求めて、である。

 意志のコントロールから逃れる時間、反省してもしきれない時間を、払拭しようとしないこと。

 時間のリアリティをどう今実感するかということが、人間におけるささやかな悪しき習慣を擁護するということと深く関わっている。

(『中央公論』2021年5月号より)

千葉雅也(作家・立命館大学大学院教授)
〔ちばまさや〕
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。著書に『動きすぎてはいけない』『勉強の哲学』『デッドライン』(野間文芸新人賞)など。
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