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千葉雅也「失われた時を求めて」を求めて

千葉雅也(作家・立命館大学大学院教授)

どう悪を許容するのか

 今日僕が重要だと思っているのは、これだけ世の中がありとあらゆることをデータ化し記録しコントロールする方向になっているなかで、そこから逃れるような自由、すなわちある種の悪として現象し、ときに批判されもするような事態を何らかの経路で許容することである。これは新しい価値観でも何でもなく、従来の人間社会において当然のことだった。が、今日の超管理社会化はそれを厄介払いしようとしている。その趨勢に抵抗し、従来からの精神をどうやって継承していくか、なのである。

 だが難しいことに、そういう悪の許容が必要だというロジックをかろうじて認めるにしても、社会のオモテの側においては、コントロール=善だという建前を言わなければ信用されないので、悪を緩やかにでも擁護するということを明確に言うことはできない(たとえば組織の会議の場において)。それをオモテで言葉にしてしまうと、それは再び管理の対象としてターゲッティングされてしまうことにもなるだろう。

 だから、この文章のように悪を語ることをひとつのメタ言説にすること自体に僕は迷いがある。つまり「言わぬが華」というかたちで、ただ実践的に、曖昧さの領域を曖昧なまま作動させるような微妙な抵抗が必要なのだ。正面切って論陣を張ることが、かえって負けを加速させてしまうことになりかねない。

 今、公共領域というものが広がりすぎていると思う。個人の物語の余地がなくなってきている。昔ならば個人間のトラブルだったことが大きく何か社会問題として打ち立てられて、個人間の問題をどうするかではなくシステムをどう改変するか、再発防止策というかたちになっていく。個人としての歴史がなくなり、システムのなかでの適切な位置づけが優先される。そうすると、人生は一回きりの特異的なものではなくて、システム全体の特殊な部分でしかなくなるだろう。

 かつては、大きな権力によって個人の訴えが黙らされているから、個人的なことは政治的であるというふうに、社会問題を見出して声を上げるべきだという活動に疑いえない意義があった。だが現在、そうした政治化の戦略をそのまま維持するのでは正しいとは思えない。なぜなら今日、社会問題を打ち立てて耳目を引くことはかつてよりも段違いに容易になってしまったからである。SNSの発達によってそうなったわけだ。ネット上であらゆる些事が溢れんばかりに語られ、データ化され、次々に管理の対象になっていくなかで、いかにプライベートな人間関係の領域を保つかこそが、今重要な問題だと僕は考えている。政治性の左右を問わず、あらゆることがシステマチックな再発防止策の対象にされる。より生きやすくするためにはシステムの改善が当然必要だという単純な話を超えて、個々人の生・性の固有性が失われていくことの危険性に気づくべきだと思うのである。

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