《追悼・立花隆さん》京橋には科学編集者がいた
一人でアメリカの宇宙飛行士を訪ね
田中角栄のロッキード事件は、七七年から公判が開始するも、人と金が複雑に入り組んでいるので八〇年当時も公判まっただ中だった。全公判に出席していた私は、ほかの仕事をほとんどできないので、欲求不満の塊だった。しかしお盆だけは公判も休みになり、まとまった仕事ができる。そこで、棚上げになっていた宇宙飛行士の企画をこの夏休み期間に、アメリカへ行って取材してこようと思ったのである。
『中央公論』は臨時増刊で、初めての「ノンフィクション特集号」を作ろうと張り切っていた。その後、編集長となる平林孝さんが担当についてくれたのだが、彼は英語がからきしダメで、会社にもお金がない。一緒にアメリカ出張することもままならないと言う。仕方がないので、平林さんには資料収集と宇宙飛行士達へのアンケート送付を頼み(平林さんは返信用の封筒を入れ忘れたので、アンケートはほとんど回収できなかった)、渡航の段取りから取材のアポ取りまですべて自分でやることにした。実は、それ以前にもアメリカ取材をしたことがあり、合衆国政府広報庁の外国人取材サービス制度を利用すれば何とかなるだろうと思っていた。記者クラブ副所長、日系アメリカ人のフランク・馬場さんが非常に世話好きな人だったので、彼の協力も仰いだ。あとはアメリカに行きさえすればいい、そう思っていた。ところが彼の地へ行ってみると、USIAが閉じているではないか。なんと、あちらも夏休みだったのである。
取材許可こそもらったが、肝心の取材日時や場所が決まっていない。方々へ電話し、手紙を書き、ようやく一人、また一人と取材することができた。私は英語が得意だったので、読み書きや取材で質問を投げかけることは問題なかったのだが、ヒアリングは必ずしも十分ではない。専門用語が多く、感情のニュアンスを理解するためにも一旦文字に起こしたいので、現地でアメリカ人の学生バイトを雇い、彼らに英語でテープ起こしをしてもらった。それを日本に持ち帰り、私が和訳して文章構成するという作業を続けた。そうしてできたのが、『宇宙からの帰還』である。これは八一年十一月の『中央公論』臨時増刊号にまず原稿一〇〇枚を発表、以後七ヵ月間本誌で連載し、八三年に単行本化された。連載中から好評を博し、今でもロングセラーになっているようだ。宇宙飛行士になった毛利衛さんや野口聡一さんも愛読してくれたそうで、これは望外の喜びである。
残念ながら『自然』は八四年に休刊となってしまったが、『宇宙からの帰還』以来、『中央公論』では科学をテーマとした連載を書かせてもらった。八五年十一月号からは、生命倫理の大難問として当時議論に沸いていた『脳死』の連載がスタート。このシリーズも話題を呼び、『脳死再論』『脳死臨調批判』など三部に分けての長期連載になった。他にも、ニュートリノや性転換をテーマに、最先端の科学者と対話した『サイエンス・ミレニアム』、再生医学を追った『人体再生』など、いずれも興味深い企画をやらせてもらった。
中央公論でここまで科学関連を追うことができたのは、ひとえに『自然』以来のサイエンスに強い編集者がいたからだろう。『自然』最後の編集長・岡部昭彦さんは当時最先端の分子生物学にも詳しく、たくさんの企画の話をしたし、同編集部から中公新書へと移った石川昻さんは科学の知見を活かし、『ゾウの時間、ネズミの時間』など科学系のヒット作を出されていた。京橋の旧社ビルのあの一角に行けば、科学の話ができる。今でも私にはそのイメージが残っている。