2010年代ヒット漫画に見られる饒舌と沈黙。だから炭治郎は感情や思考をはっきり語り続ける

谷川嘉浩(京都市立芸術大学特任講師)

「言葉の不在」を際立たせる

 しかし、こうした「実況的な語り」とは異なる台詞回しも10年代に度々現れていた。それは、吃音、言い淀み、沈黙などを通じて、言葉が形を失ったり、言葉自体がこわばって表現にならなかったりするような語りである。これを「沈黙的な語り」と呼んでおこう。

 その典型例としてまず挙げておきたいのは、ストリートダンスを題材にした、珈琲の『ワンダンス』(19ー)だ。吃音持ちの主人公は、それをからかわれた経験などから目立つことを恥じている上に、体育の授業でうまく踊れなかった経験があり、ダンスに拒否感すら持っていた。しかし、魅力的なダンスを見せる仲間や地道な練習を通じて、彼はダンスにのめり込んでいく。

 この作品において、ダンスは言葉の代替物ではないし、吃音を癒やすものとして登場するわけでもない。言葉にならない衝動や、ダンサー同士が言語化に向かない感覚を露出させ、突き合わせる、別のコミュニケーション回路としてダンスは位置づけられている。「沈黙的な語り」自体が主題の一つなのだ。漫画という音が流れない媒体でダンスを描くからこそ、踊る際の静けさ、つまり言葉の不在が際立って感じられる。

 同じことが、フランスの漫画であるバンド・デシネの傑作『レベティコ――雑草の歌』(20)にも言える(西暦は日本語版刊行年、以下も翻訳本は同様)。物語上は音が鳴っていても、紙で実際の音は鳴らせない。しかし『レベティコ』の音楽描写は、演奏家や踊り手のノリや動きを描くことで、賑やかな雰囲気と静謐な質感とが両立する独特な印象を与えている。

 一見華やかなゲーム業界を舞台にしつつも、仲のいい同僚や友人と競争を繰り返し、他者評価を比べざるをえない状況が頻出し、言葉を飲み込むシーンが度々ある『NEW GAME!』(13ー)、女性の大学院生が主人公で、物語が進むにつれて主人公の台詞が減っていくバンド・デシネの話題作『博論日記』(20)も、「沈黙的な語り」を巧みに用いた作品である。

 10年代という括りからはそれるが、最近話題を呼んだ藤本タツキの「ルックバック」(21)も、言葉の不在を巧みに用いている。作者を思わせる主人公が登場する私小説的な連想を用いた短編で、漫画を描き始めた小学生から、短編が商業誌に載るようになる中高生を経て、プロ漫画家となった20代前半までを描いている。

 この作品では、机に向かい集中して漫画を描いている場面、過去を振り返る場面、親しい人との間柄を思う場面などは、台詞が一切登場しない。時には表情すら描かれず、一層言葉の不在が印象づけられる。確かにこれらのシーンでは、雄弁で報告的な言葉遣いよりも「沈黙的な語り」がふさわしいだろう。

中央公論 2021年10月号
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谷川嘉浩(京都市立芸術大学特任講師)
〔たにがわよしひろ〕
1990年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都大学大学院人間・環境学研究科人文学連携研究員、近畿大学非常勤講師ほか。単著に『信仰と想像力の哲学』、共著に『今からはじめる哲学入門』『メディア・コンテンツ・スタディーズ』がある。

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