コロナ後の「希望の図式」 岡田暁生【小林秀雄賞受賞 記念寄稿】

岡田暁生(京都大学教授)

「おかしな時間感覚」と「分け隔てる集い」

 近代とは「みんなで一緒に盛り上がること」をしゃにむに追求してきた時代だったとしよう。ならばコロナ禍以後の1年半にわたり世界を覆っているのは、盛り上げようにも盛り上がらない、まるで芯が湿ったロウソクのような時間である。子供の頃に見た「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」にはしばしば、歪んだ時間のエアポケットに主人公が迷い込むモチーフが出てきた。まさにあれが現実になったのだ。時間が軌道をまっすぐ進まない。時間がなめらかに、直線で未来へ続いているという感覚が持てない。

 こうしたシュールレアリズム的な「おかしな時間感覚」は、コロナ禍以後にライブハウスや音楽イベントに行ったことのある人なら、すぐにわかるだろう。マスクをして音楽を聴くというのは、すでにそれだけで妙な光景だ。マスクとは通常(少なくも2019年以前なら)花粉症予防などの目的のほかに「顔を隠す」「正体をわからなくする」という含意があった(映画の中で銀行強盗は口元を隠して眼だけ出す)。口元を隠しブラボーも言わずにただ拍手するだけの何十人、何百人、何千人を相手にすることは、出演者にとってさぞかしやりにくいだろうと想像する。「分け隔てなく集う場」だったはずのコンサートや芝居やスポーツが、マスクをつけていることで「否応なく分け隔てられてしまう場」に一変してしまうのだ。

 音楽やスポーツを楽しんだ後(前)に「いっしょに外食できない/飲めない」という状況も、想像以上に状況にダメージを与えている。とてもいいコンサートを聴きに行き(もちろん入場制限&マスク着用義務だ)、たまたま会った友人と盛り上がって、終演後にどこかで一緒に夕食をとろうということになり、なんとかやっている店を見つけたものの、入るやいなや「黙食!」というポスターが目に飛び込んできて、一瞬で感興が醒めてしまうという経験をしたこともある。音楽やスポーツは、飲食店やバーといった「巷」と不即不離で共生していたのであり、そこから切り離して音楽だけ聴いても、試合だけ観ても、一向に興が乗らないのだ。テイクアウトで食べる高級レストランのメニューと同じである。

 中学や高校の合唱コンクールは、自校の出番が終われば他校は聴かず、出来るだけ足早に会場から去るという形でもって、かろうじて開催されているという話も聞く。本来こういう集いは、ふだんなら交わることのない色々な人たち(他校の人たち)が、いわば潮目のように交わる/混じりあう場所だったはずなのだが、それがない。客のいないホールで、ただ審査員の前で歌を歌うだけなのだ。異なった潮と潮が混じりあう場所は、魚が豊富に採れることで知られる。こんな社会の豊穣な潮目が成立しなくなっている。

 ヨーロッパで6月あたり(パリでは6月中頃)から導入され始めた、イベントチケット購入のための衛生パスポート(ワクチン接種証明またはPCR検査等の陰性証明)の義務化も、音楽イベントの性格を根本から変えてしまうかもしれない。『音楽の危機』の中で私は、「さあ、抱き合え、幾百万の人々よ」と高らかに合唱が歌うベートーヴェンの『第九』を聴くために(歌うために)、コロナ陰性の証明書が必要になったりしたらもうおしまいだ、という意味のことを書いた。あのときは「まさか......」と思いつつ、半ばギャグを装った牽制のつもりであった。しかし心のどこかに「本当にそうなるんじゃないか......」という不安もあった。そして1年後、「分け隔てのない集い」だったはずの場所が、現実に「人びとを分け隔てる集い」になり始めている。

 「コンサート」という制度が生まれるのは18世紀末くらいからのことである。前近代にはコンサートなどなかった。これはとても重要な点だ。コンサートとは政治的にニュートラルどころか、そこにはフランス革命以後の市民社会の「自由・平等・友愛」の理念が深く刻まれている。音楽は王侯貴族や教会の独占物ではない、音楽を愛する者なら誰でも自由に音楽を聴いて友愛の絆を創れるはずだ――これがコンサート制度を社会的に支えてきた暗黙の考え方であって、本来そこにいかなる差別もあってはならないはずなのである。「コンサートは今やお金のある衛生的で健康な人だけのものになりつつある、新自由主義的なディストピアがコロナによって現実のものとなりかけている」などと言えば大仰にすぎるだろうか。

 他方、数年内には恐らく来るだろう「コロナ明け以後」に目を転じてみても、音楽の未来は楽観できない。音楽を直接間接に支えてきた経済基盤のダメージ、グローバル移動の困難、大人数で集うことへの人々のトラウマ、特に入れ込んでいたわけではないライトファンの音楽離れ、消毒やマスクといった事前予防が音楽の場を無邪気に楽しめる場でなくしてしまうリスク等々、懸念を挙げればきりがない。とりわけ「一緒に楽しく歌う」といったことすら、この1年半の間「してはダメ!」と言われ続けていただろう子供たちへの長期的スパンでの影響がどうなるか、まったく予想もつかない。

 ふつうに考えれば未来について希望的になれる材料はあまりない。しかし「希望」とはいったい何なのだろう? 高度経済成長モデルのバリエーションとしてのV字回復だけが希望ではあるまい。「盛り上がること」だけが希望ではないはずだ。この状況を「まったく別の希望のかたち」を見つける好機だと思うこと――これもまた希望の可能性ではないか。もはや空洞化しているかもしれない近代の「盛り上がる希望」にいつまでも未練をもつことで、逆にじわじわ萎えていく希望のエネルギーこそ、絶望への道ではないか?

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