オリオン・クラウタウ ノストラダムスから聖徳太子へ!? 五島勉による終末論の行方

オリオン・クラウタウ(東北大学准教授)

「予言者聖徳太子」の歴史的背景

 2022年現在で聖徳太子といえば、歴史に関心のある人々が思い浮かべるのは恐らく、その実在を疑問視する「虚構説」だろう。90年代の後半に唱えられたこの説によれば、斑鳩(いかるが)に宮と寺を建てた有力な王族の「廏戸王(うまやとおう)」は実在したが、数々の事業を行った聖人としての「聖徳太子」は、8世紀初頭成立の『日本書紀』の作者による創造だという(大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』)。その新たな太子理解はやがて教科書にも反映されたものの、現在では定説ともいえず、むしろ様々な視点からそれを否定する研究成果がある(石井公成『聖徳太子』)。

 しかし、学問の場で議論される史実と創作のあいだの「聖徳太子」のイメージと並行して(そしてそれと関わりつつ)、実は70年代オカルトブームの流れですでに展開しつつあった超能力者としての太子像も、90年代の日本社会でまた大きく広がる。それはまさに、未来を予知する存在としての太子のイメージである。

 無論、太子を人間以上の力を有する「カミ」のように描く伝統は戦後に始まるわけではなく、『日本書紀』の頃から存在している。そこでの語り方が多面的に展開し、太子にまつわる神話の決定版ともいえる10世紀成立の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』にいたった。ただ確かに、仏菩薩に等しい能力を有し、未来を予知できる人物として太子を描く態度は古代から見られるが、文学研究者の小峯和明が指摘するように、それが中世に大きく発展していることも極めて重要である(『中世日本の予言書』)。

 例えば、『平家物語』に太子の幻の予言書たる『未来記』への言及があり、『太平記』ではその『未来記』をより詳細に描写する場面がある。14世紀に成立した『太平記』は武将・楠木正成を軸に南北朝時代を描いたもので、その巻六に正成が天王寺を訪ね、老僧に次のように頼む場面がある。聖徳太子が百代にわたって日本の危機とその収束を予知して著した『未来記』が天王寺にあると聞いているが、まことであれば今の代に関連する巻を見せてほしい、と。老僧がその依頼に応じて蔵から取り出した一巻には、「人皇九十五代」のときに天下が乱れるものの、最終的に一人の統制者の手に戻る、という予言が記されていた――。物語の構成として正成は当然、この予言を自身の状況も踏まえて解釈するため、彼のキャラクター展開を考える上でも重要な場面である。

 本論の冒頭でも触れた構造だが、『太平記』で描かれた『未来記』は恐らく実在しておらず、物語的な装置として使われたものと思われる。いずれにせよ、これらのテキストから確認できるように、中世日本で予言者としての聖徳太子の力は広く信じられ、このような作品がそのイメージ拡大に貢献したことも間違いない。例えば、『太平記』が広く読まれるようになる江戸時代から、その記述を念頭に置いた『聖徳太子日本国未来記』などの偽書が上梓されていくのも驚くべきことではない。前掲の小峯も教えるように、聖徳太子を予言者として描く伝統はまさに多様で、古代から現在まで連綿と続いているのである。

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