寺西ジャジューカ お笑い界の競技化がもたらしたもの――芸人にとって歓迎すべき状況か否か
芸人のリアリティショー化
視聴者や番組制作陣はM-1で何を重視しているか? 芸人の能力は当然だが、それと同等に芸人の持つバックグラウンドに注目している気がする。番組が軌道に乗ると、やたら感動的な路線へ向かいたがるのが紳助だった。「このコンビはバイトでやりくりしながら芸人を続け~」「この芸人は両親から勘当されても夢を諦めず~」など、舞台裏をドラマチックに仕立ててその物語をお茶の間と共有。芸を磨かんと切磋琢磨する若手にフォーカスする"芸人のリアリティショー化"は、そういう意味でM-1が成功した証しなのかもしれない。
芸人から受ける感動はM-1以前にもあったが、能動的に番組が感動させにいく風潮はやはりM-1以降だろう。他方、その手の演出にいかんともしがたい照れくささを感じる者も存在する。2017年11月14日放送の「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)での太田光と田中裕二のやり取りにこんなものがあった。
「俺、ちょっとよくないと思う、こういう傾向。感動路線みたいな? それはお笑いが気持ち悪いことになるだろう、きっと。M-1というのはそれに一役買っちゃってるとこあんじゃん」(太田)、「いいんだけど、まあ気持ち悪いよね(笑)。そういう裏側を......俺は正直、「情熱大陸」とかも嫌だった(太田と田中は過去に、それぞれ毎日放送「情熱大陸」から密着取材を受けている)。お笑いはそういうのから逃げるためにやってるみたいなとこあるからね。感動は誰でもあんだけど、それを隠す。隠したい人たちがお笑いをやってるっていうのがあるから」(田中)
人間のバックグラウンドを見ることで得る面白さもあるが、それは笑いの面白さとは違う。M-1視聴後、ファンに残る感情は「楽しかった」より「感動した」のほうが遥かに大きいはずだ。M-1ファイナリストの舞台裏に密着した「M-1アナザーストーリー」(朝日放送)を見ればM-1はよりドラマチックになるし、笑いはより崇高なものとなる。
果たして、芸人側はこの風潮を歓迎しているのだろうか? 浅草を拠点に活動する漫才コンビ、ナイツの塙宣之(はなわのぶゆき)はこんな発言を残している。
「照れますね、単純に。「そんな大したことしてないのにな」という気持ちがないとダメだと思うんですよ、お笑いは宗教でも権力でもないので。だから、僕らの漫才を見て「命救われました」って言う人は、ちょっと大丈夫ですか? と」(NHKEテレ「SWITCHインタビュー達人達」18年5月5日放送)
もはや笑いの競技化が止まることは考えにくいが、競技化すると決まって感動がついて回ることに辟易する層(芸人ならびに視聴者)は確実に存在する。