令和4年谷崎潤一郎賞発表 『ミトンとふびん』吉本ばなな
[文学的近況]還暦前の区切り 吉本ばなな
賞をいただけたことは素直に嬉しかったです。ありがとうございます。
谷崎潤一郎先生と私の共通項は誕生日だけという気がして申し訳ないのですが、それはそれで珍しいことだと思います。
なによりも嬉しかったのは、現役バリバリの憧れの先生方が読んで決めてくださったことです。読んでくださったと思うだけで嬉しいです。
金沢の話で密かに登場する、尾崎秀樹さん、奥野健男さんも力を貸してくださった気がします。
そして、偏屈な私をそっと支えてくれたとても大勢の編集者や友人知人家族そして読者のみなさん、ありがとうございます。この賞はみなさんのものです。
日本で賞をいただくのは久しぶりのことです、などと書くとなんだかいやらしいですが、私は幼い頃から今でいう発達障害のど真ん中を生きてきたので(だから変わった小説の書き方をすることができる)、小説を書いているということ以外は全く何ひとつできずに、そしてせずに、ただただ書いてきました。
広告の紙の裏が白ければそこに書くという子どもレベルです。そうしているうちに、だんだん職業が小説家なのかどうかさえわからなくなってきました。私の立ち位置は職業小説家として、独自と言えば聞こえはいいですが、つまりデタラメです。
小説家になりたての若い頃は「もしかしたら若いからじゃないか、もう少し大人になればいろいろ大人の行動ができるのではないか」と思っていたのですが、四十すぎたらもうさすがに諦めました。
かっこいい独自の道を歩んでいるのではなく、したくないことをしないというパンクなことでもなく、ただできることがすごく少なくて、できること以上のことをすると脳がパンクして倒れる、それだけのことで、全く自慢できることではありません。
自慢できる部分は、ただただひたすらに55年くらい書いてきたということだけです。そんなに伸びもせず、成長もわずかで、文法はずっと間違えているし、よくわからないストリートの仕事をいっぱいしているし、融通はきかないし、どうにもならないのですが、それでもとにかくがむしゃらに書いてきたのです。
それも、好きだから書いているとか、ただ工夫を重ねて書いてるだけですから、なんとも言えない人生です。
逆に言うと、これだけひたすら書いていたら、書く仕事にはつけるだろう、そうでないとほんとうに世の中にいられない、ということだったと思います。
そんな変なやり方で不器用に、虫が葉っぱを食べるようにこつこつやっていたら、日本の文壇とか文学の世界からすっかり外れてしまい、賞なんて全く関係ない世界にいつしかたどり着いてしまってました。でも読者がいるし、ものによってはそんなに売れなくても本にしてくれる出版社がまだあるし、死ぬまで、読者が最後のひとりになるまでは書こうっと、と思っていました。
悔いはないですけれど、なにを書いても特になんの反響もない時期などは、少しだけ悲しくなりました。こ~~~~んなに書いてるのに? っていう感じでした。
でも、そんなこと言っててもしかたないや、とまたこつこつ書くわけです。
書きながら子どもなんて産んで育てちゃって、それがまた変な育てかたをしていたから大変で、お金も思ったよりかかってすっからかんになったり、青息吐息のときに両親が死んだりして、ひとりだけ残った親であった義理のお父さんも死んじゃって、いつのまにか大人がいなくなった(もうすぐ還暦なのに大人になれないばかりかどんどん外れていく)、それでもなるべく気にしないでこつこつと書くわけです。
こうして振り返ると誠に味気ない人生ですが、そうしながら、1ミリずつでも、ほんとうに書きたいことに近づいていって、ある程度思ったところまでいけたらいいなあ、そのためには健康が大切だな、と思っています。
ほんとうに書きたいこととは何か、というと、人の潜在意識に読ませる文章を書くことと、自由とは何か、ということです。
これも言葉にしてしまうと全く浅薄なのですが、私の頭の中にはいつもそのイメージが宇宙くらいの感じで広がっています。書くと小さくなっちゃうから、また書くのです。
結局全ては潜在意識が決めているようなものだ、とおっしゃったのは野口晴哉さんですが、その秘密と、自由というものの真実に自分なりの方法で迫っていきたいのです。
いくつになっても小娘のようなことを言っているようなのですが、それが本気なら、必ずなにかしら道はあるだろうという希望を持っています。
『ミトンとふびん』は、くりかえし行って肌になじんでしまったような日本以外の国々をいったん小説にしてみたい、という試みでした。
昔、幻冬舎で試みた「世界の旅シリーズ」を書くのはとっても楽しかったのですが、コラボレーションをしたり、大勢で移動したり、付録のルポ的なものに力を入れていると、やはり筆は遅れます。「あれは何かの修行だったのだろう、あのシリーズで外国の雰囲気を描くことを必死で練習したから、今があるんだ」と思います。当時の関係者のみなさまにも、心から感謝します。
追加で海外取材をしようとしたら、なんとコロナ禍がやってきてしまい、最後の最後に行ったローマがかろうじてしっかり取材できた場所でした。
それで困ってしまい、日本からも金沢と八丈島を題材に書くことにして、あとはなじんだ国々を恋しく思う気持ちを書きました。台湾など、人生後半の半分くらいは住もうという段階にあったので、行けなくなったこと、友だちたちに会えなくなったことはたいへんにつらかったです。
アジア圏で本をよく出しているので、アジアの出版社との密な関係が日に日に薄れていくのは精神的にダメージが大きく、それでもなるべく連絡を取り合いながら、仕事仲間たちとなんとか関係をつないできました。
そしてこつこつと書いているときに、人の命に関わる部分があるので差し障りがあり詳しく書くことはできないのですが、自分の信念、これまで築いてきた出版社や編集者との関係、それと描きたいものとのかなりきつい板挟み、また、誰を信じて誰を疑うべきなのか、とか、これをほんとうはこの人に言いたい、でも言えない、などの、個人としての自分の優しさと、小説と私との厳しい約束とが相反するような事件が起きました。
結局個人としての自分の優しさを優先したのですが、それによって、この『ミトンとふびん』という小説集のクオリティが予想していたより少しだけ、ほんの少しなのですが、落ちてしまいました。それは起きてはならないことだったのだ、ということが後からしみじみわかり、個人の優しさを取った自分の甘さ、そしてそれが小説を良くする方向に決して結びつかなかった、小説はそんなに甘いものではなかったということが、ものすごいショックを私に与え、しばらくは立ち直れないくらいになりました。
それでもこれからも、少しずつ書くしかないのだ、失敗したことはしかたない、もうこのような選択は二度とせず、小説と私の関係をいちばんにしよう、と思いながらも、やはり、私は基本短編の作家なので、自分の今の年齢とキャリアを考えるに、今の段階で出せるものは全て出した、と思えるものであったことには変わりませんでした。
読んだときに、ほんのわずかに、読んだ人の懐かしく思う何かが動いたり、忘れていたことをふと思い出したり、親がいた時代の感覚がちょっとよみがえったり、異国の風の匂いを感じたりできるようなものを描けたという気持ちはありました。
これらは「癒しと再生の小説」のようですが、そうではないのです。主人公たちは小説が終わっても同じようにあてどなく、確信もなく、ただ生きる。「情け嶋」という小説に至っては、主人公が「愛はそこにいつもあるものだ」と言っているのに、親友が「そう思ってる人たちの間ではね」と真実を口にする、そういう内容です。
たいへんわかりにくいのですが、生きていくということの中で過去はその人を作り支えているが、日々の選択肢は無限であり、その積み重ねは人をどこにでも連れていく、というようなことが書きたかったです。
少しでも伝わったのなら、嬉しく思います。
1964年東京都生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、95年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞を受賞。著作は30ヵ国以上で翻訳出版され、海外での受賞も多数。近著に『私と街たち(ほぼ自伝)』など。