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西澤千央 ひな壇というシステムは何をもたらしたのか――「アメトーーク!」を起点に考える

西澤千央(フリーライター)
写真提供:photo AC

「アメトーーク!」という発明

 3月3日のひな祭りに豪華段飾りを準備する家もだいぶ少なくなった令和。現代のひな壇は、各家庭ではなくテレビ局のスタジオにある。バラエティ番組の定番となった、ひな壇というシステム。司会はMCと呼ばれ、それ以外の複数のゲストは、段差のついた席に座り番組を盛り上げる。

 ひな壇のルーツは「笑点」(日本テレビ)の大喜利だと言われているが、視聴者に「ひな壇」という言葉をはっきりと示したのは、やはり「アメトーーク!」(テレビ朝日)ではないだろうか。一つの深夜バラエティ番組が提示したそのお笑いのスタイルは、のちの芸人たちの生き方まで左右する巨大なシステムとなっていった。

「この番組は発明だった」と言ったのは、2021年8月にネット配信された「アメトーーク!特別編 雨上がり決死隊解散報告会」での出川哲朗(てつろう)である。

 テレビ朝日で「アメトーーク!」がスタートしたのは2003年。NHKで「爆笑オンエアバトル」(1999~2010年)、日本テレビで「エンタの神様」(2003年~)、そして「M‐1グランプリ」(2001年~〔11~14年除く〕)が続々とスタートした2000年代は、お笑いブーム真っ盛りだった。

「アメトーーク!」も開始当初は様々なジャンルの芸能人をゲストに招いていたが、2004年後半頃から複数の芸人を「○○芸人」というくくりで登場させるようになる。芸人同士の関係性から紡がれる玄人っぽいトークは、視聴者の心を一気に掴んだ。その玄人っぽさの象徴が「ひな壇」という言葉にあった。

 2006年に品川庄司の品川が企画提案したのが、「ひな壇芸人」をテーマにした回である。実際にひな壇に座る芸人たちが何を考え、どんな立ち振る舞いをしながら番組を進めていくのか。その技術面や精神面を語った企画は、芸人やスタッフなどの制作側と視聴者の架け橋となった。業界のみで使われていた言葉や概念を視聴者にも周知させることで、「アメトーーク!」は視聴者に擬似関係者気分を味わわせることに成功したのである。

「ひな壇」「裏回し」「ガヤ」などの用語が当たり前に出てくる「アメトーーク!」は、業界関係者が最も気にする番組、いわゆる「業界視聴率ナンバーワン」と謳われた。そんな番組を見ている視聴者は、自然と優越感を覚えやすい。制作側へのシンパシーは、番組並びにそこに出演する芸人たちと視聴者との間にルールの共有をもたらす。つまり視聴者と番組が「共犯関係」になったのだ。

 2009年の新語・流行語大賞には「家電芸人」とともに「ひな壇芸人」もノミネート。ひな壇はこうして全国区となった。

 ひな壇には芸人にとってハローワーク的な一面もあったと思う。今年8月31日に放送されたラジオ「佐久間宣行(のぶゆき)のオールナイトニッポン0(ZERO)」にゲスト出演した品川庄司の品川が、ひな壇芸人と呼ばれていた頃を振り返り、こんなことを話している。

「当時はひな壇から売れるという感覚はなかった。ひな壇は芸人として遠回り感」「裏回しとか言われて、何、裏回しって? って思ってたし、メインの人よりウケたいって思ってたから。今のテレビで考えたら、それって間違いじゃないですか」

 2000年代は芸人の誰もが「早くテレビに出なきゃ」と思っていた時代。まだまだテレビ一強時代である。しかし自分たちのレギュラー番組を持つまでの道は険しい。「アメトーーク!」のメインMCを任された雨上がり決死隊もそうだった。所属していたユニット「吉本天然素材」からナインティナイン(ナイナイ)がいち早くブレイク。一方の雨上がりは、東京に進出するも長く燻っていた。それは2002年に放送された単発番組「苦節14年 初冠特別番組 雨上がり決死隊!!」の「苦節」というタイトルに見て取れる。

 結果的に、ひな壇はナイナイになれなかった中堅芸人たちに仕事を与えることになったのだ。冠番組もレギュラーも持っていないが、仕事はたくさんある、そんなひな壇芸人を数多く生んだのである。すると次第にひな壇を卒業し、MCの座を勝ち取っていく芸人も現れる。賞レースで結果を出し、ひな壇で鍛えられ、いつかMCに......という芸人の一種のキャリアパスが強固なものとなっていった。ひな壇は賞レースと並び、お笑いを駆動させる巨大な両輪と化したのである。「アメトーーク!」は若手芸人が乗り越えねばならぬ壁となった。

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