高野秀行×伊藤雄馬 辺境で見つけた本物の語学力

高野秀行(ノンフィクション作家)×伊藤雄馬(言語学者)

ムラブリ語から見える言語変化の普遍性

KAZ_0433-のコピー.jpg高野秀行氏

伊藤 高野さんの『語学の天才まで1億光年』は、読んで悔しいと思いました。


高野 ええっ。(笑)


伊藤 高野さんも言葉をそのまま受け止め、身につけていると言っておられましたけれど、僕が見てきた言語学者の多くは、僕を含めてそういうことが得意ではないんです。言葉を調査するにあたって、その言葉が話せるかどうかは、分析できることとは別です。論文が書ければいいから話せなくても支障はないと考える言語学者もいます。僕はそれはおもしろくないと思うんですけれど、なぜ言葉を身につけられないかというと、真に受けるためには、相手を上だと認めて、自分がへりくだって弱い立場になることを受け入れないといけないからです。でも分析は視点的には上から見ている状態とも言えますから、その乖離が、学者にとって精神的にきついんだと思います。僕は、そもそもダメな学生だったので(笑)、へりくだることに抵抗がなかった。


高野 なるほど。


伊藤 高野さんは、例えば標準ワ語を現地の子供たちに教える経験もされています。ワ語は中国の雲南省や、ミャンマーのシャン州の中にある一部の地域で使われる言語ですが、僕が言語学者がした方がいいと思い、なるべく自分も実践しようとしていることを、高野さんは全部しているんです。なりゆきの部分もあったと思うんですけれど、高野さんは先生を引き受けられるだけのワ語の語学力を身につけている。それは、言語学者として見習うべき態度です。


高野 見習うことなんてないです(笑)。僕は、どこかへ行ってその場所の言語を少し習って、また違う場所に行ったらその言語を習うというように遊動しているだけ。だから一つの民族や言語の研究を続けている人はすごいと思っていて、尊敬しかないです。


伊藤 僕も学問的には他の言語を学習しないといけないのですけれど、ムラブリ語ばかり勉強しています。ムラブリの周辺の言語も研究するものの、しっくりこないというか、不思議と興味が湧いてこないんです。


高野 伊藤さんはムラブリ化が進んでいるから、他の民族ともう合わなくなっているんじゃないですか。


伊藤 ムラブリ化ですか。(笑)


高野 そもそも研究者と相容れなくなってくるんじゃないですかね。


伊藤 だから今、論文だけではない、ムラブリとして研究することに挑戦していると公言しています。


高野 ムラブリの研究から普遍的な考察もしてますよね。ムラブリの方言がなぜ生まれたのかを説明しているところは、普遍的な言語の変化を扱っていて、すごくおもしろいと思いました。わざと言葉を入れ替えて、他のグループと識別できるようにすることで、方言が生まれていくんですよね。


伊藤 居住地域が近いにもかかわらず、違う言葉が使われているのは、そうだと考えられます。


高野 パプアニューギニアでは人の行き来が盛んな地域の方が言語の数が多くて、それは他の集団との識別のためだという解釈がありますよね。


伊藤 秘儀化(esoterogeny)ですね。相手と自分の言語を異なるものにしようと意図的に変化させ、グループをはっきりさせることが結果的に方言を生む要因になっていると考えられます。


高野 ムラブリの人も意図的にそうしているのでしょう?


伊藤 そう考えないと、説明がつきにくいんです。


高野 ムラブリの方言というと、超マイナーでマニアックなテーマに思えるけれど、言語がどうやって生まれ、なぜ数が増え、地球上にこんなにたくさんの言語があるのかという本質的な議論につながります。


伊藤 ムラブリ語には、たくさん興味深い現象があって、深掘りしていくと普遍的なものにつながるところがあります。秘儀化は日本語の中にもあって、例えば業界用語と呼ばれる、「シースー(寿司)」「ザギン(銀座)」など言葉をひっくり返して使ったりすることをはじめ、確かに普遍的なことだと考えています。


高野 あとは先ほどの「私のお父さん」のような語順のことです。日本語における「の」が違う言葉に置き換えられることで、語順まで影響を受けてひっくり返るのはなぜか。それはクレオール化によるという説です。僕は若いとき、混成語、クレオールの何がおもしろいんだろうと思っていたんです。


伊藤 そうなんですか。


高野 大学が早稲田だったので、西江雅之先生が教えている講義をとっていたんです。西江先生は言語学者・文化人類学者として著名でしたから、著作なども読んでいて、頭はいいし、言語の天才であることはわかったものの、どうしてクレオールにこんなに執着しているのかなと不思議でした。


伊藤 あんまりピンとこなかったんですかね。


高野 僕は当時、ムラブリのような希少言語の方がもっとプリミティブでピュアでおもしろいと考えていました。どうしてローカルな言語とヨーロッパの英語やスペイン語やフランス語などが交流して二次的にできた人工的な言語に、そんなに興味を持つのか疑問だったんです。ヨーロッパの言語にあまりシンパシーを感じていなかったし、交流なんて長い歴史の中では新しい話だから、どうでもいいと思っていました。けれど最近、言語の成り立ちを考える上で、言葉と言葉のぶつかり合いの場で必要性から生まれるピジン化やクレオール化は、絶対に避けて通れない、すごい本質的なことだと、つくづく思うようになりました。西江先生は正しかったなと。(笑)

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