不評だった映画のタイトル、『対話と構造』から『私のはなし 部落のはなし』に変えるまで。「部落問題」を描くために必要だったこととは?
寝た子を起こすな」という声
満若 今回、映画に出てくる京都、大阪、三重。この三つの地域は「解放運動」といわれる、反差別や生活の改善を求める運動が根付いていたので、「部落問題を広く知ってほしい」と取材に対して理解を示してくださいました。そういった運動の中で、すでに被差別体験を語る「場」があったんですね。
映画を観てもらえば気づかれると思いますが、みなさん、よくしゃべる。三重の四人で話している場面(※1)も、実際の撮影時間は3時間半くらいあったのですが、それでもまだまだしゃべり足らないという感じでした。
撮影が終わったあとになって、親しい人と個人的な会話の中で被差別の体験を共有するということは、じつはあまりないことだと聞きました。学習会などで、「話す」ということを日頃からされているので、この映画に映っているように「自分のことを語る」ことが出来たんだと思います。そうでないと、いきなりあのように話せるのか......ぼく自身でいうと、むずかしいです。そういうことを取材の現場で感じていました。
※1 三重県伊賀市の被差別部落にルーツを持つ4人の対話(c)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
一方で、やはり「寝た子を起こすな」......そのままにしておいてほしい、という人は多いように感じています。たとえば京都駅に近い崇仁地区でも、名前と顔を出して撮影ができたのは高橋のぶ子さん(戦後間もない頃から夫に反対されながらも部落解放運動に積極的に参加していった。氷川きよしのデビュー以来のファンでもあり、取り壊しが決まった団地から転居する日までをカメラは追っている※2)や、限られた数人でしたし、撮られたくない人も多くいました。ほかの地域では何人かの「対話」という形をとっていたので、ここだけ登場人物が一人というのを映画としてどう成立させていくのか。そこは考え悩んだところです。
※2 京都市下京区の崇仁で暮らす高橋さん(c)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会