〈祝『チャンバラ』中央公論文芸賞受賞!〉齋藤 孝×佐藤賢一 宮本武蔵の"荒ぶる魂"を取り戻せ
(『中央公論』2023年9月号より抜粋)
※ 佐藤賢一氏の『チャンバラ』は、第18回「中央公論文芸賞」に選ばれました。
死力を尽くして戦った武蔵の前半生を描く
──佐藤さんはこの春に、宮本武蔵の名勝負を描いた『チャンバラ』を上梓されました。齋藤さんも以前、『超訳 宮本武蔵語録──精神を強くする『五輪書』』という本を書いていらっしゃいます。宮本武蔵や『五輪書』に関してはこれまでもさまざまな本が出されていますが、お二人が武蔵を題材に選んだ動機を教えていただけますか。
齋藤 私はずっと「技を磨く」ということに関心があったんです。10代のころはテニスに明け暮れて、武道も学び、技を磨く過程で人間も練られるんじゃないかと考えていた。これはけっこう日本人的な発想だと思うのですが、それを代表するのが宮本武蔵ではないでしょうか。
しかも、自身が磨き上げた技の理論を、晩年に『五輪書』という書物にまとめたところがすごい。日本史上で他に例を探しても、能の理論書である『風姿花伝』『花鏡』を記した世阿弥ぐらいだと思います。
『五輪書』は今でも読み継がれていますよね。それは、内容が具体的かつ本質的だからでしょう。もう剣を持つ時代ではありませんが、押し寄せる逆境に立ち向かう基本姿勢のようなものを、武蔵から学ぶことは大事だと思います。
佐藤 『宮本武蔵』を書いた吉川英治以来、特に歴史ものを手掛ける作家なら、僕にかぎらず手を出したくなる人物だと思います。
その魅力は大きく二つ。一つはご指摘のとおり、『五輪書』を書き残したことです。そしてもう一つは、生涯六十余戦して一度も負けなかったこと。実際に戦って勝ち抜いた剣豪なんですよね。僕がこだわったのは後者のほうです。
『五輪書』の中で武蔵はもちろん60戦について触れていますが、実はあまり肯定的ではない。それ以降の鍛錬のほうが重要だったという書き方をしています。だとすれば、60戦していたころの前半生の武蔵は、老成して『五輪書』を書いた武蔵とはまったく別の姿だったのではないでしょうか。
それに、『五輪書』はまさに今日でも読まれるほどすばらしい書物ですが、言い換えるなら、万人に合わせた書き方をしていると思うんです。60戦60勝は武蔵にしかできない偉業であり、そこに至る鍛錬や技術について書いても仕方がないという思いがあったのではないか。
つまり『五輪書』には書かれていない、ひたすら自分が勝つために死力を尽くして戦った武蔵がいたはずです。吉川英治もかつて、「人間の営みとは、究極的には戦うことと性愛である」という言い方をしています。僕もまったくそのとおりだと思っていますが、そういう部分の武蔵はあまり描かれてこなかったような気がします。僕はそこにこだわって書いてみようかなと。