速水健朗 団塊ジュニア世代の目に映った言論空間

速水健朗(ライター・編集者)
速水健朗氏(撮影:米田育広)
(『中央公論』2023年10月号より抜粋)

村上龍に夢中になった頃

──7月に「団塊ジュニア世代の半世紀」の副題を持つ『1973年に生まれて』を上梓されました。ご自身も73年生まれです。メディアの変化などを巧みに捉えた本書は話題を呼んでいますが、生きてきた時代を振り返ってみて、どのような存在に影響を受けてきたと感じますか?

 世の中で何かが起きた時、「この人だったら何を言うだろう?」と僕が真っ先に思い浮かべる言論人は村上龍です。

 1985年に出た『EV.Café──超進化論』という本があって、彼と坂本龍一(ともに1952年生まれ)がホストとして主に少し上の世代の論客と鼎談しているんですが、龍も龍一もまだ30代の前半で、文化人の中では若手なんですよ。なので、とにかく生意気。二人ともブレイクが早いし、自分たちは新しい世代だっていう意識を強く持っている。

 この本でゲストとして出てくるのは、柄谷行人や蓮實重彥らですけど、もっともやり込められているのは吉本隆明です。彼は全共闘世代のアイドルだったはずなんですけど、龍も龍一も容赦ない。吉本は、中島みゆきを評価する言説でも知られていますが、龍は、「演歌なんじゃないの」と軽んじています。

 ちなみにその発言の直前に龍は、「これから何かをやっていこうという日本人にとって演歌を憎むっていうのは正当なこと」だと言ってます。吉本隆明は第1回のゲストで、音楽の話をして、二人に音楽のことがわかっていないとけちょんけちょんにやられてしまう。文学性よりも身体性の強靭さを自分の強みとして打ち出していた当時の村上龍は、ジャズやドラッグの知識とか、テニスのうまさとかで、年上の論客より優位なポジションを得るんです。


──村上龍のエッセイで、特に印象に残っているものはありますか?


 彼は「すべての男は消耗品である。」という題名で、ずっとエッセイを書き続けていました。連載する雑誌は時代ごとに変わってますけど、お堅い雑誌ではない、グラビア雑誌などの媒体でもよく書いていました。

 1980年代のロス疑惑の頃に、日本でもっとも三浦和義を評価していたのは、村上龍だったと思います。英語が話せて、事業で成功もしていて、美女ばかりと付き合っている三浦は、日本人のコンプレックスを刺激するような要素を全部持ち合わせており、それはまさに自分に向けられる嫉妬と同じである、といったことも論じている。

 当時の空気で言えば、三浦は日本中から「叩いていい存在」としてバッシングされていた。おそらくは映画で失敗して叩かれた自分と三浦を重ねて見てるんです。振り返ると、三浦和義って迷惑系ユーチューバーの先駆けのような存在ですよね。村上龍は当時、三浦に小説を書くべきだと言っていた。ちなみに村上龍の最新作の題名は『ユーチューバー』で、自分をモデルにした作家が老害ユーチューバーとして活躍する話なのがまた興味深いというか。


──速水さんと同世代で、村上龍から影響を受けている人はいますか?


 小説家としての東浩紀は村上龍をすごく意識していると思います。本人とも何度かその話をしたことがあります。そういえばミシェル・ウエルベックを評する際、フランスの村上春樹にたとえることがありますけど、絶対に村上龍とアナロジーすべきですよ。自国の大衆文化の状況へのストレートな怒りとか、シニカルな描写は龍っぽいです。

 かつて、同世代の作家として村上龍と村上春樹(1949年生まれ)をくくる「ダブル村上」という言葉がありましたけど、今となってはこの二人が同じ枠で語られることは全くなくなっています。80~90年代のメディアスターは、村上龍。どちらも、エッセイストとしても読まれていた。ただ、作家としての立ち位置が正反対で、龍は常にウイルスやインターネットなど新しいものを先取りする作家。春樹は、60年代に若者だった自分たちの世代を語り続ける、過去にこだわる作家。

 メディアとの関わりで言えば、当時の春樹って表に出てこない作家というイメージです。テレビにもラジオにも出ない。音楽番組に出演しないZARDのようなイメージでした(笑)。「作品はリリースされるけど、この人は実在するのだろうか?」っていう。だけど、今はラジオを精力的にやるなど、メディアでの活動もしている。時代の変化とともに、両村上が比較されることはなくなった。あと、最近だと村上龍はちょっと語られにくい存在になってしまった感はありますね。

1  2  3