『昭和期の陸軍』筒井清忠著 評者:髙杉洋平【新刊この一冊】

筒井清忠/評者:髙杉洋平(帝京大学准教授)
昭和期の陸軍/筑摩選書

評者:髙杉洋平(帝京大学准教授)

 今年2025(令和7)年は、太平洋戦争終結80年、昭和100年に当たる。そのため、戦争や昭和を振り返る多くの企画が各種メディアを賑わせた。しかし、そうしたもののなかには、最新の学説を踏まえないものや、ステレオタイプな歴史解釈を踏襲したものも少なくない。筒井清忠氏が本書を執筆した動機も右にある。

 筒井氏は50年の研究キャリアを誇り、今なお第一線で学術的成果を発表し続けている昭和史研究の第一人者である。その研究分野は文化史・社会史から政治外交史まで幅広いが、なかでもライフワークとして取り組んできたテーマが昭和期を中心とした軍事史研究であろう。本書は、氏がこれまで各媒体に発表してきた昭和期の陸軍に関する論考をまとめ、さらに甘粕事件についての書き下ろし論考を加えたものである。

 筒井氏の広範な研究関心を反映して、「昭和期の陸軍」と一口に言っても、本書の取り扱うテーマは多岐に亘る。第1章では、甘粕事件が扱われる。関東大震災の混乱のなか、憲兵大尉甘粕正彦が、無政府主義活動家の大杉栄らを殺害遺棄した同事件は、軍部による思想弾圧事件として名高い。甘粕に対する判決が甘かったことに加え、出所した甘粕が満洲国に渡り活躍したことなどから、事件の背後に陸軍上層部による使嗾(しそう)があったのではないかという疑惑は根強い。そのため、同事件は昭和陸軍の暴走と国民弾圧のプレリュードとして語られてきた。

 本章の白眉は、史料的制約の多いそうした背後関係の疑惑解明からは一先ず距離を置き、なぜ甘粕に対する判決が(今日的観点からすれば)不当に甘いものになったのかという疑問に対して、逆説的かつ説得的な答えを提示していることである。

 筒井氏によれば、甘粕事件は、当該期の左翼思想の先鋭化、軍人の社会的地位の低下、知識人と大衆の分断といった様々な時代背景のなかで惹起されたものであり、判決が甘くなった背景に、甘粕に同情的な大衆世論の圧力(後援)があったとする。本章が描く陸軍像は、絶対的で威圧的なものではなく、むしろ圧倒的な世論を窺い、ポピュリズム政治のなかで揺れる存在である。

 研究対象を俯瞰し、時代性の文脈のなかで相対化する手法は、筒井氏の研究に一貫したものであろう。第2章以降の論考でも、陸軍を当該期の政治、社会、文化といった時代背景に投影することで、軍隊や軍人の等身像を浮かび上がらせる。軍隊や軍人というものが、今日もなお流布される「絶対悪」ではなく(あるいはその真逆の正義でもなく)、極めて社会的で人間的な存在であったことを浮き彫りにする。我々が軍隊の失敗から学ぶものがあるとすれば、先ず前提としなければならないのはそのことであろう。

 研究に終わりはないし、その意味では全ての研究は未完成品である。しかし、どの時代どの分野にも、メルクマールとなる研究は存在する。そうした研究は、初学者が最初に手に取る文献として優れ、その後も度々立ち返るべき存在である。そして時には、挑戦すべき先行研究の壁として後学の前に立ちはだかるだろう。良い研究とはそういうものであり、筒井氏の研究もまた、そうしたものとして読み継がれていくのではないだろうか。

(『中央公論』2025年12月号より)

中央公論 2025年12月号
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筒井清忠/評者:髙杉洋平(帝京大学准教授)
【著者】
◆筒井清忠〔つついきよただ〕
1948年大分県生まれ。帝京大学学術顧問、東京財団上席フェロー。専門は日本近現代史、歴史社会学。京都大学教授、帝京大学文学部長などを歴任。『西條八十』(読売文学賞、山本七平賞特別賞)、『昭和十年代の陸軍と政治』『戦前日本のポピュリズム』など著書多数。

【評者】
◆髙杉洋平〔たかすぎようへい〕
1979年愛知県生まれ。國學院大學大学院法学研究科博士課程後期修了。博士(法学)。日本銀行金融研究所個別事務委嘱などを経て現職。著書に『昭和陸軍と政治』『帝国陸軍』などがある。
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