みの 80億"総ジョン・レノン時代"がやって来る...音楽史の転換点としてのビートルズ"最後の新曲"
「記名性」が価値になる
こうした状況は、20世紀的な録音芸術に親しんできた我々からすると、実に味気ない現象にも感じる。どんなに魅力的な歌手が登場しても、翌日には誰しもがその歌声を自在に操ることができる。青春を捧げ、日々血の滲むような楽器の修練を行ったとしても、AIに打ち込んだたった一行のプロンプトで、その価値は人々に平等に配当される。
一方、音色上の要素のなかでも、AIが決して複製することができないものがある。記名性だ。
「1994年春のカート・コバーン衝撃の死の直後にリリースされた(中略)アコースティック・ライヴ・アルバム」。これはニルヴァーナの名ライブ盤『MTVアンプラグド・イン・ニューヨーク』の帯に記載されていた文章である。晩年のカート・コバーンによる、鬼気迫る絶唱がセールスポイントになっているのは明らかだ。人は優れた音楽を求めると同時に、付随するドラマも欲するのである。「解散ライブ」「カムバックシングル」。こういった付帯事項に価値を見出すのは、記名性の魅力ゆえに他ならない。「最後の新曲」も同様だろう。
記名性が特に重要視される例として、アイドルが挙げられる。英語でIdolという語は「偶像」あるいは「虚像」を意味するが、こうした肩書からも明らかなように、キャラクターとしての総体が重要なのだ。言葉が悪くて恐縮だが、正確なピッチで歌うことができない音痴な人間であったとしても、今日の録音技術では音程を修正することは容易である。各々が持つ声色は残ったとしても、ピッチやニュアンスの特徴は、かなりの部分が平均化されているのだ。つまり、音色上の魅力のほとんどはソフトウェアの力によって生み出されることになるが、録音時のこうした工程を演者も受け手もある程度了解した上で、ファンは喜んでCDを買う。そのアイドルが実際に歌ったという事実が重要なのであり、魅力的な音色を生み出す能力よりも、記名性が優先されるからである。
「ナウ・アンド・ゼン」におけるジョンのヴォーカルが、どれほどAIに補完されているかはブラックボックスの中にあるが、本曲が価値を持ち、リスナーを魅了するのは、ジョンが実際に歌ったデータを使用していて、他の3人が肉付けを行ったからに他ならないだろう。ストーリーと記名性が刻まれているのだ。本曲が公式にリリースされる前から、熱心なファンたちがAI技術を用いて復元した、各々のヴァージョンの「ナウ・アンド・ゼン」がYouTube上に公開されていた。本家本元とこれらを並べて論評するのは容易ではないだろう。なにせいずれも正真正銘、本物のジョン・レノンが歌っているのである。
ポールが開けたパンドラの箱
ところが一筋縄でいかないのがポール・マッカートニーだ。
(続きは『中央公論』2024年2月号で)