『ひとりみです』AKIKO(森島明子)著 評者:三木那由他【このマンガもすごい!】

三木那由他
ひとりみです/個人出版

評者:三木那由他(大阪大学大学院人文学研究科講師)

 真っ白なページの中央に、ひっそりとした大きさで「私たちは、ここにいる。」と書かれている。ことさらに強調されているわけでも、目立つフォントを使っているわけでもない。それがちょうど話し声のように、それゆえ、まさにこれから語りだす誰かがいるように目に飛び込んでくる。それが本作の始まりだ。

 主人公の今村幸(いまむらみゆき)さんは、還暦を迎えたところだ。ひとりの部屋で納豆をご飯にかけながら自分へのバースデーソングを歌う。しかし、その様子は寂しそうではない。むしろ温かで満たされた空気を感じる。

 幸さんはレズビアンである。これまで何人かの女性と交際したが、誰かと長く暮らすことはなかった。「ひとりで生きてひとりで死ぬレズビアン」。幸さんは自分自身をそう評する。

 さしたることが起きる物語ではない。実家の片づけをし、合間に煙草を一服し、若いころの出来事を思い返す。淡々とした日常だ。それでも、幸さんの言葉に、そしてそのリラックスし、どこか粋な仕草に心を奪われる。ただの日常なのに、「このひとの生活をじっと見つめていたい」と思わせられるのだ。

 本作にはのちにもうひとりの主人公と言うべき楠恋音(くすのきれのん)さんという人物も登場する。恋音さんもまた還暦のレズビアンで、1年前の事故がきっかけで車椅子を使っている。リハビリをし、自分へのご褒美にと甘いものを食べ、自分のセクシュアリティになかなか気づけなかったこれまでの日々を思い返す。こちらも日常だ。

 そのそっけなさが素晴らしいのだ。私がこれまでに読んだ同性愛者の物語の多くは、パートナーの存在、あるいは恋愛感情によって、その人物のセクシュアリティが描かれていた。まるで、同性愛者は他者との関係のもとでしか存在しえないかのように。

 それらの物語に出てくる同性愛者のほとんどが若いひとだという点も、以前から気になっていた。若く、自分のセクシュアリティに戸惑い、悩む人々。それはもちろん大切で、読むひとによっては切実な物語だ。でも、中高年以降の同性愛者がどのように生きているかはあまり知ることができず、それは少々寂しくもあった。

『ひとりみです』は、還暦で独身のレズビアンの主人公を置くことで、確かに存在しているのに物語のなかにはほとんど存在しないことになっていた人間を描き出してくれる。さりげない日常は、さりげなさゆえにその存在の確かさを示す。「私たちは、ここにいる。」と、すべてのページが、描かれるすべての振る舞いが、台詞が語りかけてくる。その呼びかけを、ぜひ実際に受け止めてみてほしい。

 そんな素晴らしい作品だが、個人出版のかたちを取っているため、読めるのは電子書籍、およびnoteというサービスの著者のブログのみ。そのため慣れていないひとには手に取りにくく感じるかもしれないが、その手間をかけるだけの、いやそれ以上の素敵な作品であることは保証できる。


(『中央公論』2025年4月号より)

中央公論 2025年4月号
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三木那由他
大阪大学大学院人文学研究科講師
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