「自由」「社会」「法」......日本は欧米とズレていた【新刊この一冊】
評者:苅谷剛彦(上智大学特任教授、オックスフォード大学名誉教授)
読書の喜びの一つに驚きがある。ページを繰りながら何度も目から鱗が落ちる。驚きを持って何かを学んでいるという実感は、そうした喜びの一つだ。本書がそのような一冊であることは間違いない。だが評者が驚いたのは著者による指摘が蒙を啓(ひら)いてくれたことに留まらない。そうした指摘を支える、重厚な知識と教養に裏打ちされた著述の仕方に驚きを感じたのである。
本書は副題が示すように、西洋から輸入されたさまざまな言葉、翻訳語についての「講義」である。取り上げられるのはFreedom・Liberty(「自由」)、Right(「権利」)、Law(「法」)、Nature(「自然」)、Public/Private(「公と私」)、そしてSociety(「社会」)。括弧内の日本語にカギを付けたのは、通常このように訳されるそれぞれの「西洋の基礎概念」が、はたしてそのような日本語で理解できるのか否かを問うこと自体にねらいがあるからだ。タイトルが示すように、訳語として通用している「自由」はLibertyや西洋語(仏語や独語)の同類の言葉と同じなのか。本書はそれを問題の俎上に載せる。
この本の卓越したところは、こうした問いへの答え方にある。もとの西洋語の概念自体を西洋の政治思想史に位置づけ、それらに対応する翻訳語についても、日本語の歴史(近代以前を含む用例)を遡る。さらに漢語に訳される場合には、それを構成する漢字の意味や用法についての中国語の歴史・用例にまで行き届いた解説が加えられる。その意味で、地域と時代を跨いだ多重の比較をもとに、翻訳語によって私たちが何を理解し、何を理解できずにいたのかが明らかになる。
それだけではない。本書のもう一つの魅力は、西洋語の概念と同じような観念が日本にはなかったかどうかに目を向け、私たちの理解を助けてくれるところにある。たとえば「社会」と訳されるSocietyに類する観念が、「仲間」「組」「連中」「社中」といった言葉で理解され、言い表されてきたこと、しかしそうした類似の観念がいかに西洋語のSocietyとは異なる面を持つかを示すことで、定着した「社会」では理解できない西洋語のSocietyの意味の広がりを説く。一体これだけの分析・説明を一般の読者にこれほどわかりやすく行える著者の頭の中はどうなっているのか。その教養の厚みと思考の展開に驚きと感動さえ覚えた。
おそらく、日本政治思想史の分野では、近代日本が翻訳語でできあがってきたこと、それが西洋とは異なる日本の近代をつくりだしたことに関心が向いたのだろう。丸山眞男、石田雄(たけし)といった先学も翻訳語の問題を論じていた。だが、政治思想史の専門家でもない評者が言うのは僭越に違いないだろうが、本書がそれらとひと味違うのは、分析の奥行きの深さであり、それを支える学究的な厳密さの姿勢だろう。
私自身、自らの研究を「知識社会学」と称して、日本人が日本語で社会の問題を構築する際の言葉の問題について研究してきた。特に英語からの翻訳語やカタカナ表記の外来語が、もとの文脈を離れて使われることに注意を喚起した。16年あまりを過ごしたイギリスを離れ、帰国後の日本に見たのは日本語の衰えであり、それゆえのコミュニケーション不全であった。言葉を鍛え直すためには、使っている言葉の素性をしっかり理解する必要がある。本書はそのための最良の一冊である。
(『中央公論』2026年2月号より)
◆渡辺浩〔わたなべひろし〕
東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。1946年横浜生まれ。専門は日本政治思想史。著書に『近世日本社会と宋学』『東アジアの王権と思想』『日本政治思想史』『日本思想史と現在』など。
【評者】
◆苅谷剛彦〔かりやたけひこ〕
1955年生まれ。東京大学教授、オックスフォード大学教授などを経て現職。『大衆教育社会のゆくえ』『追いついた近代消えた近代』など著書多数。





