「体験者から直接聞けない世代」が戦争を問うということ 戸部良一×小山俊樹

戸部良一(防衛大学校名誉教授)×小山俊樹(帝京大学教授)

転機となった満洲事変

小山 昭和の戦争は遠くなりつつあるわけですが、その転換点がどこだったのかは重要ですね。私は日本の大きな転機となったのは満洲事変(1931年)だと考えます。対外的には日本に対する国際的信頼が失われ、太平洋戦争へと続く英米中との対立構造を形作ってしまった。それと同時に国内的には政党内閣のガバナンスが強く問われ、政治に対する軍や官僚の信頼が低下しました。

 その要因の一つを、満洲事変の前触れとなった張作霖爆殺事件(1928年)に見ることができます。この事件は関東軍の謀略だったのですが、国内では「満洲某重大事件」と報道され、首謀者も軽い停職処分で済まされました。これほどの事件にもかかわらず責任が問われないとなると、軍も官僚も上の命令に従わなくなり、誰がトップに立ってもまとめられない組織になってしまいます。こうした規律の弛緩が張作霖爆殺事件によって生じ、満洲事変で決定的に現実化したのではないでしょうか。

 組織のガバナンスが緩んでいったということは、逆から見ると、大臣や政治家の存在が軽くなっていったという言い方もできます。これも満洲事変を契機に可視化されたことです。上に立つ人間が下の意見を十分に汲み取らず、無責任に命令を発する。結果、下の人間はこの命令は実行するに値しないものだと受け取り、ガバナンスが利かなくなります。軍の規律が弛緩したと捉えられがちですが、弛緩するにもそれなりの理由があったのではないでしょうか。

 この頃の興味深い史料に、関東軍の河本大作が出した手紙があります。河本は手紙の中で張作霖への強い殺意を示していますが、戦中の回想では当時総理大臣であった田中義一や陸軍大臣の白川義則大将が張から賄賂をもらっていたと糾弾しています。本当に賄賂の授受があったかどうかはわかりません。ただ、その噂を信じてしまう土壌があったわけです。上層部に対する不信感が強く、賄賂をもらうような上層部の命令など聞く必要はないと正当化する意識が、軍内で蔓延していたのです。

 規律の弛緩は官僚組織にも生じていました。選挙での不正や財閥との癒着、政治家の資質の問題などで、官僚内にも上に対する不信が強まり、政党内閣のガバナンスを揺るがしました。軍部も政党内閣も、命令を下す上層部の鼎の軽重が問われたのがこの時代の特徴だと考えています。

戸部 小山さんから国内の政治状況について説明いただいたので、私は日米開戦に至る対外的な視点から転換点を3点挙げます。一つは小山さんも挙げられた満洲事変、二つ目は盧溝橋事件と第二次上海事件を合わせた支那事変(日中戦争)の拡大(1937年)、三つ目は日独伊三国同盟の締結と南進(1940年)です。

 それぞれ簡単に説明しますと、関東軍の企てだった満洲事変によって、満洲国が建国されます。それ以前の日本は東アジアの秩序を守るという立場で行動してきたのですが、満洲事変と満洲国建国は、日本が秩序を壊す側、または秩序を変える側へと移行した出来事でした。

 二つ目の転換点は支那事変の拡大です。満洲事変が起きてしまった以上はそれ以前の日中関係に戻すことはできないが、関係を安定化させようという試みが続いていました。それが支那事変によって台無しになってしまった。これにより、日本の対外的な選択肢は非常に狭まってしまったのです。

 ちなみに、私は「十五年戦争論」という立場をとりません。満洲事変から敗戦までを一直線上に捉える十五年戦争論は、満洲事変があったから支那事変が起きた、支那事変があったから大東亜戦争が起きたという歴史観に支えられていますが、私はそれらは必然的な連鎖だったとは考えません。支那事変の拡大も、どこかで止めることができたのではないでしょうか。

 転換点の3番目に挙げたドイツ・イタリアとの三国同盟では、日本はアメリカという虎の尾を踏んでしまったわけです。アメリカにとって日本は、中国で戦っているうちはアメリカ国民に多大な被害を及ぼしているわけではないし、めんどうくさい国だけど見逃すことができた。しかし、ドイツと手を結ぶということは、アメリカからすると既存秩序の破壊者同士の同盟と見えるわけです。しかも日本が南へ進出すると、イギリスの勢力圏である東南アジアやインドを脅かすことになる。ドイツと敵対するイギリスをなんとか助けたいアメリカとしては、日本の南進は許しがたい。こうした三国同盟と南進が対米関係に与える影響を、当時の日本の上層部はどこまで意識していたでしょうか。

小山 上層部の意識は薄かったのでしょう。三国同盟を回避する動きは国内にありましたが、最終的には大戦勃発後にドイツが破竹の勢いで勝っていたことと、アメリカと戦争に陥ることはないだろうという楽観的な予想で同盟を締結してしまった。上層部はドイツという勝ち馬に乗って、それで植民地を拡大することができればラッキーぐらいの認識だったかもしれません。

戸部 単純に支那事変が起こったから三国同盟締結は不可避だったとは考えませんが、支那事変が長期化していたがゆえに、それを打開するためにドイツと結ぼうとか、南へ進出しようという発想が出てくるのは、連続性が見られますね。

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