及川琢英 知られざる関東軍の実像

及川琢英(北海道大学大学院文学研究院共同研究員)
 関東軍と謀略の関係を理解するには、中国情報の収集・分析に専門的に当たった「支那通」についての理解が欠かせない。彼らは何者であり、謀略にどう関与したのだろうか。北海道大学大学院文学研究院共同研究員の及川琢英氏が論じる。
(『中央公論』2022年1月号より抜粋)

関東軍とはどのような組織か

 関東軍と謀略と言えば、すぐに張作霖爆殺事件(1928年)や満洲事変の発端となった柳条湖事件(31年)が挙げられるだろう。しかし、一口に関東軍と言っても、誰がどのような立ち位置でそれらの謀略に関与したのだろうか。

 日本と満洲の深い関わりは、日露戦争(1904~05年)に始まる。日本は日露戦争で遼東半島の先端部(関東州)と南満洲鉄道(満鉄)の経営権を獲得した。06年には両者を保護管理するため、遼東半島西南端の旅順に関東都督府が設置された。関東都督府は駐屯部隊を統率するとともに政務を統轄したが、次第に時勢に合わなくなり、19年に軍民分離がなされる。民政部門を引き継いだ関東庁に対して、軍事部門を引き継ぎ、日本の権益を保護する役割を担ったのが関東軍であった。

 関東軍司令官は、常駐の独立守備隊と本国から交代派遣される駐箚(ちゅうさつ)師団を統率した。18年外務省の都督府改革案では、軍司令官を置かず、駐屯部隊を本国の直轄としたが、同案は採用されなかった。出先に軍司令官が置かれて、裁量権も与えられたとなれば、「本国は現状をわかっていない、自分らがやらなければならない」という気風が生まれても、不思議ではない。日本陸軍では、命令をただ待つのではなく、自ら率先して動くことが是とされていたので、なおさらである。

 そしてそれは関東軍の内部でも同じであった。たとえば張作霖のお膝元の奉天(ほうてん)(中国遼寧省の省都瀋陽の旧称)に駐在していた武官と、旅順の軍司令部は、必ずしも一枚岩ではない。状況により、事を急ぐ出先と慎重な本部という関係性が生じた。

 以下では、まず関東軍参謀や奉天駐在各武官について確認し、それを踏まえて、関東軍の満洲事変までの主要な謀略を見ていこう。

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