及川琢英 知られざる関東軍の実像

及川琢英(北海道大学大学院文学研究院共同研究員)

満鉄奉天公所

 鉄道業のほか多様な業務を展開した満鉄にも、情報調査のための機関があった。それが各地に開設された公所や事務所である。奉天公所は、09年5月に設置されている。

 奉天の市街地は、東には城壁に囲まれた中国人街の奉天城、西には満鉄付属地があり、その中間には各国領事館などが置かれた商埠地(しょうふち)(外国人居留地)があった。奉天城は、レンガ造りの城壁で正方形に囲まれた内城と、その外側に土を積み上げた壁(旧来の姿はほとんど失われていた)で円形に囲まれた外城があった。内城のなかには、張作霖府(官邸兼私邸)や奉天の行政機関、銀行などが並んでいた。特務機関の拠点はわからないが、軍事顧問の官舎は内城のなかだろう。奉天公所も内城のなかに位置した。

 初代奉天公所長は、佐藤安之助少佐である。佐藤は、正規の学生ではないが、特別に陸大に入学が許されており、ほぼ天保銭「支那通」(第一世代)といっていい。日露戦争では特別任務班の統轄補佐官を務め、戦後、満鉄に入った。当時の陸軍省内規では、現役軍人のままの正規入社が許された。13年には、同内規の改正によって嘱託(都督府陸軍部付)に身分を変更している。

 15年11月、佐藤がスイス駐在に転じると、鎌田弥助(やすけ)が後を継いだ。鎌田は大陸浪人系の人材で、東京外国語学校で中国語を学び、義和団事変に陸軍通訳として従軍した。川島浪速が監督を務めた北京警務学堂の教習となり、日露戦争では特別任務班の馬賊監督官を務めている。日露戦争後、満鉄に入社して佐藤のもとで働き、佐藤の転出後は所長代理を務め、18年9月に正式に所長に昇任した。張作霖とは日露戦争以来の関係がある、奉天の諜報に欠かせない人材で、関東軍とは協力関係にあった。29年8月に定年で満鉄を退社するが、嘱託として引き続き駐在した。

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