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及川琢英 知られざる関東軍の実像

及川琢英(北海道大学大学院文学研究院共同研究員)

奉天督軍軍事顧問

 関東軍参謀となる河本大作が小隊長として日露戦争に出征した際、憧れを抱いたのが、馬賊を率いた特別任務班であった。日本陸軍は、同任務班を組織し、馮徳麟(ふうとくりん)ら奉天在地の馬賊勢力を利用して対露諜報・破壊活動などを行った。馮徳麟の後輩馬賊(のち義兄弟となる)で、日露戦争前にいち早く清国官軍に編入されていた張作霖も任務班に関わっている。任務班の馬賊監督官の人選には、大陸浪人の川島浪速(なにわ)が関与し、多くの大陸浪人が参加した。

 日本陸軍は日露戦争後も大陸に影響力を残しておくため、戦争中に清と交渉を開始して、馮徳麟らを清国官軍に編入させ、合わせて日本人馬賊監督官を顧問として招聘することを認めさせた。日露戦争後、張作霖や馮徳麟は、清国官軍の昇進争いのなかで淘汰されずに、地位を高めていく。

 辛亥革命(1911~12年)後、北京政府のもとで張作霖、馮徳麟はともに陸軍中将に昇進した。それぞれ第27師長、第28師長に任命され、奉天省における主要な軍事力の一角を占めるようになる。

 日本からの馮徳麟第28師への顧問派遣は続いたが、14年7月、顧問が契約満期前に解雇され、替わってドイツ人が傭聘(ようへい)されるという事件が起こった。日本はこれを外交問題化させ、9月、中国側との交渉の末、奉天将軍(省軍政長官)のもとに菊池武夫中佐(天保銭第一世代)と町野武馬(たけま)少佐(無天組)を軍事顧問として派遣することを認めさせている。

 やがて張作霖が奉天督軍(奉天将軍を改称)兼奉天省長に任命され、同省の支配権を握るが(馮徳麟は失脚)、現役軍人2人の軍事顧問派遣は、慣例となって続いた。さらに張作霖が東三省(奉天省、吉林省、黒龍江省)巡閲使となって、東三省支配を固めるなか、日本は奉天督軍に加え、吉林督軍、シベリア出兵時には黒龍江督軍にも軍事顧問を派遣した。

 その後、奉天督軍軍事顧問には、本庄繁大佐(1921年5月~24年8月・天保銭第一世代)、松井七夫大佐(24年9月~28年9月・同第一世代)、土肥原(どひはら)賢二大佐(28年1月~29年3月・同第二世代)、今田新太郎大尉(31年4~9月・同第三世代)などが就いている。松井は、関東軍参謀、後述の奉天特務機関長に引き続いての就任、土肥原も後に同特務機関長となっており、各駐在機関内で人事交流があったことがわかる。

 では、この軍事顧問はどのような存在であったか。日本側は、軍事顧問を通して、奉天軍に日本を手本とするよう指導し、また奉天軍の情報を探知することを狙った。しかし、奉天軍側もただ手をこまねいていたわけではない。軍事顧問への情報を統制し、自分たちに都合の良いように日本側を動かすことを企てた。

 軍事顧問は、参謀本部に籍を置いていたものの、給料は奉天軍から出ていた。このことは、奉天軍側のコントロールが強まる要因となった。

 しかも、関東軍の軍事顧問に対する区処(命令より弱く指導に近い)権は、当初、はっきりしていなかった。関東都督府は軍事顧問に対する区処権を持っていたと考えられるが、それも都督府廃止によって曖昧となった。そのため軍事顧問は、独自に行動する傾向が強かったのである。

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