西田知己 「シン」流行は江戸時代から――新しさはなぜ"良いこと"になったか

西田知己(日本史学者)
写真提供:photo AC
 近年、「シン」の名を冠した映画や書籍などが相次いで生み出されている。それは「シン」に次ぐ「シン」の展開ともいえる。その源流となる動きが江戸時代に見受けられ、当時は「新」に次ぐ「新」の流れが注目されていた。新しい物事への注目度がさほど高くなかった古代や中世の段階をへて、江戸時代に「新」が脚光を浴び、現在に至るまでの歩みを振り返ってみよう。
(『中央公論』2023年6月号より抜粋)

古語における「新」とは

 現代社会では、技術の向上や情報の更新が当たり前になっている。過去の実績の積み上げが評価され、今後もその延長線上に向かうと想定されている。その目算が織り込まれた現代語の「新」には、一方でネガティブな今後も見通されている。肉や野菜などの新鮮味を伝える「新」がその典型で、腐ったり傷んだりする近未来の「古」が意識されている。技術や情報なら腐りはしないが、後続に更新されたり修正されたりして、今日の「新」が明日には「古」や「旧」となって追い落とされていく。何事も後出しが有利になる展開でもあり、無限に消費ないし消耗されていく日常に虚無感が生まれたりする。現代語の「新」は、そういう宿命も含めて理解されている。

 対する古語の「新」は今現在をあらわし、改善や更新といった今後の未来像は思い描かれていなかった。古語の「新米」や「新酒」であれば、毎年同じサイクルで定期的に生産されていく米や酒をあらわし、その周期性は「新月」の感覚に近い。よって昨年以前につくられた「古米」や「古酒」と区別されるだけで、昨年よりも改良された新商品という意識は乏しかった。一方では翌年の米や酒が出荷される時期まで「新米」や「新酒」であり続け、時間とともに鮮度が失われて「新」の字が外されるとは認識されていなかった。

 もともと古代や中世の段階では、技術力や情報などが後世ほどハイペースで更新されていかなかった。生活史や科学史の年表には技術革新の段階的な発展が記述されているが、それらは百年単位の歩みを一覧表に凝縮してこそ実感できる変化にほかならない。ひとりの人間が、一生涯の間に頻繁な更新を体験していたわけではなかった。

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