西田知己 「シン」流行は江戸時代から――新しさはなぜ"良いこと"になったか

西田知己(日本史学者)

転換点としての『塵劫記』

 長年にわたって旧来の意味で使われ続けてきた「新」に語義変化が生じたのは、江戸時代に入ってからだった。今後を想定した「新」の台頭をうながした要因の第一に挙げられるのが、学芸や諸産業の発達である。戦国期をへて平穏な江戸時代が訪れると、速いサイクルで技術水準が向上し、情報の更新も頻度が増していった。その更新が「新」によって語られる機会が増えていくうちに、この語に近未来の見通しが投影されるようになったと考えられる。

 諸学芸の中でも、「新」から「新」への小刻みな更新がなされやすい分野が存在した。その一端が「読み書きそろばん」と総称される初等教育の世界で、教材に使われた往来物の題名には、しばしば「新編」や「新板」などが冠されていた。基本的な学習事項となる平仮名や片仮名、かけ算の九九といった共通の土台の上に、どのような「新」なる付加価値を与えて先行書との差別化を図るか。そこが版元(出版社)の腕の見せ所だった。

 とりわけ、そろばんの本に「新」が多かった。そろばんは織田信長や豊臣秀吉の時代に、貿易船を介した商取引の過程で中国から伝わった。江戸時代を迎える頃にはマニュアル本の登場が待たれ、その需要に応えたのが吉田光由(みつよし)の『塵劫記(じんこうき)』(寛永4〔1627〕年刊)だった。充実した内容でたちまちヒットを記録し、類書や海賊版が多数出回っている。

 元祖の存在感を示すべく、光由自身も新作の『塵劫記』を何冊も世に出し、みずから「新編」と銘打った版もある。そのたびごとに旅人算(複数の人物が登場する、速さ・時間・距離の問題)、ねずみ算、油分け算など新趣向の遊戯的な問題が追加されていった。光由亡き後も『新編塵劫記』は刊行され続け、明治時代の半ば頃に至るまで都合400種を超えている。

『塵劫記』を出発点にした理数系の学術は、「新」なる取り組みが人から人へ、先人から後進へと受け渡されていった。それは絶え間なく研究を更新する姿であり、現代的な学術の発展モデルに近い。その実現に向けて、『塵劫記』が踏み出した一歩は大きかった。

西田知己 「シン」流行 画像.jpg『新編塵劫記』にある旅人算。後発の馬が、先行した牛に追いつくまでの日数を問う(筆者撮影)

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