佐藤卓己×辻田真佐憲 戦前のメディア政治が現代に残した教訓
「メディア人間」としてのひろゆき
辻田 先生はご著書の中で、池崎の文体を「メディア文体」だと書いておられますね。
佐藤 池崎の最初の単著『新時代の書翰』(赤木忠孝名義)はタイトルどおり手紙の模範文集です。手紙の文体には相手に親近感を抱かせ、その心をつかむ目的がありますが、それは彼のメディア文体の一つの特徴だと思います。我々がSNSに何かを書くときも、「いいね」の数を意識しはじめるときっと池崎に似たメディア文体になっていくでしょう。その危険性を意識する必要があります。
辻田 今日で池崎のようなメディア文体を駆使する「メディア人間」に当てはまるのは誰かと考えたとき、「2ちゃんねる」開設者のひろゆきさんが思い浮かびます。彼が著書『論破力』の中で面白いことを書いています。「論破をするときには必ず観客をつけろ」というんです。つまり議論とは1対1でやるものではなく、オーディエンスが勝ち負けを判断するものであって、「こっちが勝っている」と見せることがすごく大事だと。彼の挙動を見ていると、信念や一貫した論理があるわけではなく、常にオーディエンスを味方につけて勝利するために競い合っている。そういう意味でメディア人間そのもののような人です。
世の中に働きかけようと思ったら、メディア文体で発信しなければいけないわけですが、ひろゆきさんのようにオーディエンスの支持だけを狙うのは当然まずい。かといってメディア文体から逃れて引きこもると、単に影響力がないだけということになる。そうなると、その両者の間のどのあたりにちょうどいい解があるのか、容易には答えが出ません。
佐藤 池崎は大衆の世論を先読みすることに関してはある種天才的なところがあって、それをいち早くつかんで言葉にできました。それを読んだ人は「自分の思っていたことはまさにこれだ」と快感を得る。それこそが支持を集めた所以だと思います。池崎が日米戦を煽動したと批判される『米国怖るゝに足らず』がなぜベストセラーになったかといえば、当たり前ですが読者が本を買ったからです。問題作をベストセラーにした責任はその著者よりも、むしろ買った読者大衆、辻田さんがおっしゃるオーディエンスの側にあることも強調しておきたいですね。