加藤聖文×及川琢英 関東軍の「独走」はなぜ起きたのか――「鉄砲を持った役人集団」の失敗から学ぶもの

加藤聖文(国文学研究資料館・総合研究大学院大学准教授)×及川琢英(北海道大学大学院文学研究院共同研究員)

形骸化するルール

及川 どこの国でも諜報活動は多かれ少なかれやっているので、その延長線上で謀略に近い行為が行われることもあるだろうと思います。

 ただ関東軍の場合、大局に立った戦略性が希薄で、諜報活動や謀略が行き当たりばったりに行われていたところが特異と言えますね。


加藤 交渉相手が統一政権ではなく、制度も整備されていない状況下では、個人単位で中国側の有力者と関係を築き、彼らの力を使って自分たちの利益を追求するインセンティブが生まれてしまうのでしょう。相手が要求しているものを与えて、その対価として益を得る。つまりは裏取引ですが、そういった関係性が入り乱れることになります。政治主体が明確な近代国家であれば、こうはならなかったはずです。


及川 陸軍中央と関東軍との法的な関係性も大きかったと思います。関東軍参謀だった片倉衷(ただし)の日誌を読むと、関東軍では天皇からの「命令」に対し、陸軍中央からの関与を「指示」として、後者の重要度を低く見なしていました。

 関東軍司令部条例でも、「作戦及動員計画」に関しては、参謀総長の「区処を承(う)く」と記述されています。「区処」とは、目的に適うように区分し処置するという意味ですが、陸軍を長州閥が支配していた時代には、区処は「命令」と変わらず絶対的な意味を持っていました。ところが寺内正毅、山県有朋などの有力者が死去すると長州閥の支配力は弱まります。陸軍内では下剋上の風潮が高まり、「区処」を軽んじる傾向が強くなりました。

 さらに「作戦及動員計画」という文言は、法改正の推移や他の法令と照合すれば、あくまで「作戦計画」であり「作戦」そのものではないのだ、という解釈も可能です。関東軍の独断専行は、こうした法令の隙を突いたものであると考えられます。


加藤 とくに山県は際立った人物だったと思いますが、その他にも桂太郎や寺内など、ある時期までの長州閥には政治や行政と軍事の両方がわかる人材がいて、軍部を大局からコントロールしていました。しかしその後は人材が枯渇してしまって、近代化とともに専門性が高まっていく軍事を把握できる人がいなくなると、軍部はブラックボックスになってしまい、どんどん独り歩きをしてしまったわけですね。


及川 法令の観点からさらに付け加えれば、天皇の命令である「奉勅命令」は、参謀総長が立案し天皇の裁可を得て発令されるので、参謀総長が出先機関を統制することは可能でした。

 しかし奉勅命令の乱発は天皇の権威を失わせることになります。だから1931年9月の柳条湖事件に始まる満洲事変では、金谷範三(かなやはんぞう)参謀総長が天皇の委任の下に命令を発する「臨参委命」でもって、関東軍の独断による戦線拡大を抑制しようとしました。ある時点まではこのブレーキがうまく機能していたのですが、同年11月末のスティムソン事件を境に歯止めが利かなくなります。アメリカのスティムソン国務長官は、柳条湖事件を中国軍の謀略だと主張する関東軍による錦州への侵攻を憂慮し、電話会談で幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣から戦線の不拡大の約束を取り付けましたが、そのことを記者会見で話してしまいます。錦州作戦中止が発せられる前に、アメリカ側がそれを知っていたことで金谷と幣原から他国への軍機漏洩があったと見なされて、参謀総長の権威は失墜します。そのため、臨参委命による関東軍の抑制はできなくなりました。

 39年のノモンハン事件では、ソ連軍に壊滅的な敗北を喫しながらもなおも戦おうとする関東軍に、中央は奉勅命令を連発することで作戦を中止させています。奉勅命令や臨参委命が機能しているときは軍を統制できるのですが、まだ実行されていない軍事行動について奉勅命令を発令することは難しく、状況の後追いにならざるをえない面があります。

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