加藤聖文×及川琢英 関東軍の「独走」はなぜ起きたのか――「鉄砲を持った役人集団」の失敗から学ぶもの
なぜ謀略が横行したのか
──「日本型組織」の負の面を象徴する組織としてよく語られるのが旧日本軍、なかでも独断専行で数々の失敗を犯したと言われる関東軍です。関東軍が崩壊した理由の中に、現代の組織にとって教訓になるものがないのかを、本日はうかがいたいと思います。
張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件(1928年)や、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)中佐が主導し、陸軍中央の了承を得ずに行われた「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」(1931年)などが独断専行の例として有名ですが、こうした組織の性格はいつからあったものなのでしょうか?
加藤 独断と謀略は19年の関東軍創設後から繰り返されてきましたが、その理由の一つには中国の政治主体の混沌があります。
11年に起きた辛亥革命により、17世紀から中国を統一支配していた清朝は滅亡し、翌年には孫文(そんぶん)を臨時大総統とする中華民国が樹立されました。その後、孫文から権力移譲された袁世凱(えんせいがい)が正式に大総統となりましたが、第一次世界大戦の勃発で列強諸国が欧州での戦争に注力する隙を突くように、日本が中国への進出を加速させます。
15年には日本から、山東省や満洲・内モンゴル(満蒙)などの権益を認めるよう「対華二十一ヵ条要求」を突きつけられ、袁世凱は国内の強い批判を受けながらこれを受諾しますが、権勢は弱体化し、16年には病死しています。
袁世凱系の勢力、いわゆる北洋軍閥は段祺瑞(だんきずい)の「安徽(あんき)派」と、馮国璋(ふうこくしょう)の「直隷(ちょくれい)派」とに分裂します。さらに張作霖の「奉天(ほうてん)派」が台頭し、ほかにも孫文が立ち上げた広東政府、さらには独立を目指すモンゴルなど、満蒙の権益に関わる政治主体は錯綜していました。
日露戦争により得た満蒙権益を「生命線」と見ていた日本は、複数の主体との複雑な外交政策を迫られ、裏取引や策謀が蔓延することとなります。この体質が、そのまま関東軍にも受け継がれていきました。
及川 関東軍に限らず陸軍でも謀略は行われていたと思いますが、秘密裏に進められるという性質上、裏付けとなる史料があまり残っておらず、実証が難しい面がありました。
私は関東軍初代司令官だった立花小一郎(こいちろう)の日記翻刻の研究会に参加し、謀略を示唆する記述がいくつもあることを知り、成果を『関東軍─満洲支配への独走と崩壊』(中公新書)に盛り込み、一冊にまとめることができました。とくに張作霖爆殺事件以前の関東軍の謀略を詳(つまび)らかにできたのは、この日記によるところが大きかったです。
加藤 謀略や裏工作を担当した人間が日記や記録をつけないタイプだと、史料も残らないので、研究対象としてはどうしても属人的にならざるをえないでしょうね。