倉本一宏×澤田瞳子 紫式部と平安時代
(『中央公論』2024年3月号より抜粋)
なぜ『源氏物語』を書いたのか
倉本 紫式部はいつ、どのような動機から『源氏物語』を執筆したのか。古来さまざまな説が出されていますが、先ほど少し触れたように、夫の宣孝の死去後、彰子への出仕以前に書きはじめたというのが通説です。一方、起筆の動機はよくわかりません。私はおそらく、藤原道長の要請もしくは命令によるものだろうと考えています。この物語を読むために一条天皇が彰子のところへやって来て、彰子が皇子を産む可能性を高めるという目的があったのでしょう。出仕後のことですが、『紫式部日記』には当時、非常に高価だった紙や筆、墨を道長から与えられたという記述がありますから、最初からそれらの提供を受けていたと考えても不自然ではありません。そうした支援や周囲からの助言はあったでしょうけれど、おそらく紫式部が一人で構想し、執筆したのでしょう。「桐壺」や「澪標(みおつくし)」といったはじめのほうの巻に、光源氏と三人の子の未来を予言する場面が出てきます。
澤田瞳子氏
澤田 小説を書く立場から申しますと、助言は聞くのですが、それを聞き入れたかどうか。ただ、あれほど広い宮中の物語ですし、公卿たち男性社会の話も多いので、助言を求めるというより知識を得るためにかなり「取材」したのではないかと思います。
倉本 一般には『源氏物語』は恋愛小説と考えられているでしょうが、根幹となるストーリーは皇位継承と宮廷政治で、恋愛は枝葉の話だと私は考えています。光源氏が父桐壺帝の后(藤壺)と密通し、生まれた子が即位するという「罪」、今度は妻(女三の宮)が密通して生まれた子(薫)を光源氏が育てるという「罰」、光源氏の死後、宇治の姫君が出家してそれらを償う「贖(あがない)」の三部構成で理解できます。その根底にあるのが死んでから極楽へ生まれ変わることを願う浄土信仰で、紫式部も強く傾倒していたようです。
澤田 紫式部は歴史もよく読んでいる人で、あの長い『源氏物語』のなかで、光源氏の次の世代のことも章を割いて描いています。物語をただ面白いものとしてではなくて、倉本さんがおっしゃったように罪と罰、さらに人生や社会まで描こうと挑戦したのだと感じます。