御厨 貴×酒井順子×古市憲寿「昭和100年、三世代から見た遺産」
日本が一つではなかった時代
御厨 少年期で一番印象に残っているのは、町並みがどんどん変わっていったことですね。5歳の時に父親の転勤で東京から博多に引っ越した頃は、周りは畑と田んぼと雑木林。ところが見る見るうちに開発されて川がなくなり、林がなくなっていく。
酒井 その頃、東京から福岡にはどうやって行ったんですか?
御厨 東京から長崎まで行く「急行雲仙」で、一昼夜かかりました。午後一番に東京を出て、朝方に目が覚めたらまだ広島で、母が「まるで島流しだ。東京にはいつ帰れるのだろう」と嘆いたのを鮮烈に覚えています。両親は、いずれは東京に帰るのだからと僕に方言を話すことを禁じたので、家の中では標準語。でも学校では標準語で喋っていたら受け入れられない。ほとんど2ヵ国語のような生活でしたね。
酒井 海外駐在員の子どもみたいな暮らしですね。新幹線が通って、航空券も安くなってから、どんどん差が縮まったのでしょうか。
御厨 1958(昭和33)年に関門トンネルが開通して本州と九州がつながったのは、大ニュースでしたからね。終戦の時、九州の軍には、中央政府が降伏しても天皇を九州に迎えて徹底抗戦するための準備をしていた勢力もあったように、東京へのコンプレックスと対抗意識が混ざりあった感情があるのだと思います。関門トンネルで「本土並みになれる」という言われ方をしていました。
古市 地方と東京の情報格差は本当に少なくなりましたよね。スマートフォンの画面の向こう側は世界中どこにいても変わりません。ネットショッピングが発達したこともあり、ファッション一つとっても地方の研究熱心な子のほうがおしゃれだったりする。
御厨 昭和30年代後半からテレビ放送が全国化すると、東京の言葉を使うことが粋になってくるんですよね。言葉の面でも標準化が急速に進んだ感がありました。
古市 僕の父が御厨さんの1歳上、1950(昭和25)年に鹿児島県で生まれているんですけど、鹿児島では方言を恥じる意識が強くて、学校では標準語を強いられたそうです。いわゆる「方言札」のようなものもあったと聞いたことがあります。
御厨 博多では全然恥じる雰囲気ではなくて、商店街では薬屋や米屋の親父さんなんかが一番偉く、その息子が学校でも権力者でしたから、よそ者が東京の言葉を抱えて入ってくることが嫌がられました。誕生パーティーに僕だけ呼ばれなくて、月曜に学校に行ったら僕以外の子がみんなおそろいのものを持っていた、なんてこともありました。(笑)
(『中央公論』1月号では、この後も各氏による「昭和を象徴する3人」を挙げてもらい、個人的な体験も交えて昭和という時代を語り尽くす。)
構成:柳瀬 徹
1951年東京都生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学先端科学技術研究センター教授などを歴任。『政策の総合と権力』『馬場恒吾の面目』など著書多数。
◆酒井順子〔さかいじゅんこ〕
1966年東京都生まれ。高校時代より雑誌『Olive』に寄稿し、大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。『負け犬の遠吠え』(講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞)など著書多数。近刊に『老いを読む 老いを書く』がある。
◆古市憲寿〔ふるいちのりとし〕
1985年東京都生まれ。日本大学藝術学部客員教授。日本学術振興会「育志賞」受賞。『絶望の国の幸福な若者たち』『誰も戦争を教えられない』『平成くん、さようなら』など著書多数。近刊に『昭和100年』がある。